だが残念ながらNeedhamの見解も、「中国、宋代における火器と火薬兵器」の解釈と比べてあまりマシだとは思えない。導火線は火をつけるべき対象物であって、その導火線を覆っている筒を「安んじて視る」だけでは意味がないからだ。それに太白陰經や通典を見ても、「流火縄」が「火筒」の中を通っていると書いているようには思えない。
他に唐時代の烽火台の「火筒」について言及している史料はないのか。ある。探せば出てくる。だが、少しばかり意外なところに。その史料とは、日本の奈良時代にまとめられた養老律令の中にある「軍防令」だ。
徂徠によれば唐の烽火台は「土筒4つ」と「火台4つ」を設置していたという。烽火台は昼は煙を、夜は火を上げるのだが、「土筒は烟を立てる為」に使われた。この土筒は高さ1丈5尺半から、下部の周囲は1丈2尺で上ほど細くなっており、「外も内も泥にて塗り、烟の脱けぬように」していた。上に蓋をして煙を立てる時にそれを外して運用していたそうだ(30-31/38)。
この説明は、通典に出てくる「突窯」の説明と似ている。通典によれば「突窯」、つまり煙突を烽火台の屋根上3ヶ所、下に3ヶ所設置し、「以石灰飾其表裏」つまり石灰で隙間を埋めていた。蓋についての記述は見当たらないが、烽火台である以上、この煙突が煙を立てる目的で使用されていたのはおそらく間違いないだろう。つまり、唐時代における烽火台の「筒」とは、煙を上げるために設置された煙突だった可能性があるのだ。
そう思って調べると武經總要の前集巻5"
https://archive.org/details/06047926.cn"に、まさに徂徠の元ネタが見つかる。武經總要は北宋時代の書物だが、その中には烽火の使い方に関する「唐法」(114/131)が紹介されているのだ。そこには「土筒四口」があり、そのサイズについての記述も、「造筒先泥裏後泥表」という表現も、まさに徂徠の説明通りだ(116/131)。
ここから一つの想像ができる。もともと初唐の頃には徂徠が紹介した制度が使われており、そこでは烽火台で煙を立てるために使われた煙突を「筒」と呼んでいた。おそらく兵士たちの間でもこの用語が定着していたのだろう。晩唐になって制度が変わっても、その用語は使用され続けたのではないだろうか。いまだにPCなどで保存を意味するマークにFDが使われているように。そしてそれが文字として残ってしまったのが、通典や太白陰經に出てくる「安視(望)火筒」だったのではないか。
烽火台は単独では意味をなさない。ネットワークを形成して、初めて存在意義を持つ。各烽火台にとって、自らが烽火を上げるだけでなく、隣接する烽火台を見張ることも大事な仕事だった。そして彼らが見るべきだったのは炎や煙であり、それを上げる煙突。見るべき対象物であった「火筒」とはまさに炎を上げる煙突だったのだと思われる。
通典で「四壁開孔」とあるのも、敵の襲撃を受けた時に敵を見張ると同時に隣の烽火台の煙突から目を逸らさないための工夫だったのだろう。物陰に隠れながら隣の烽火台の煙突を「安全に視る」。そして煙を確認したら、自分たちも煙を上げて情報を伝える。そうした使用法を伝えていたのが通典や太白陰經の記述だったと考えられる。
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