火筒とは 後

 太白陰經や通典に出てくる「火筒」の正体について。Needham"https://books.google.co.jp/books?id=hNcZJ35dIyUC"は太白陰經の記事を説明している部分で、この火筒の内部を「ある種の導火線(流火縄)」(p146)が通っていると解釈している。確かに太白陰經の墨海金壺本には「流火縄三条」(110/119)という文言が存在する。通典の欽定四庫全書本も同じだ(50/162)。
 だが残念ながらNeedhamの見解も、「中国、宋代における火器と火薬兵器」の解釈と比べてあまりマシだとは思えない。導火線は火をつけるべき対象物であって、その導火線を覆っている筒を「安んじて視る」だけでは意味がないからだ。それに太白陰經や通典を見ても、「流火縄」が「火筒」の中を通っていると書いているようには思えない。
 他に唐時代の烽火台の「火筒」について言及している史料はないのか。ある。探せば出てくる。だが、少しばかり意外なところに。その史料とは、日本の奈良時代にまとめられた養老律令の中にある「軍防令」だ。

 養老律令"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E8%80%81%E5%BE%8B%E4%BB%A4"は西暦757年に施行された。唐の制度に倣って制定されたことが知られており、そのうち令は「令義解」"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991102"にその多くが残されているそうだ。軍防令(99-109/880)には、名前の通り軍事に関する決まり事が多く記されており、その中に烽火台の運営についての言及もある。
 その軍防令の最後から3つ目の項目(109/880)にあるのが「凡応火筒、若向東、応筒口西開」という文章だ。ただしこの文章の意味は非常に分かりづらい。こちらのblog"http://ihst.jp/2010/06/%E6%9C%80%E8%BF%91%E3%81%AE%E8%A9%B1%E9%A1%8C%E3%83%BB%E8%AD%B0%E8%AB%96%E3%83%BB%E8%AB%96%E5%A3%87/"でも、この「筒」というものがどのような形をしていたのか、誰かしらないかとの問いかけがなされている。軍防令の次の項目にある「先須看筒裏」という言葉も、どう解釈していいのやら理解に苦しむ。
 しかし、少しはヒントになりそうなものもある。大正時代に出版された「大宝令新解」"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926859"という書物がそれで、そこで当該項目(50/124)を見ると注釈の最後に(66条参照)とある。その66条「置烽条」(46-47/124)には、荻生徂徠の「録」巻6"http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/handle/10487/4740"から引用した「唐朝」の制度が注釈として記されている。
 徂徠によれば唐の烽火台は「土筒4つ」と「火台4つ」を設置していたという。烽火台は昼は煙を、夜は火を上げるのだが、「土筒は烟を立てる為」に使われた。この土筒は高さ1丈5尺半から、下部の周囲は1丈2尺で上ほど細くなっており、「外も内も泥にて塗り、烟の脱けぬように」していた。上に蓋をして煙を立てる時にそれを外して運用していたそうだ(30-31/38)。
 この説明は、通典に出てくる「突窯」の説明と似ている。通典によれば「突窯」、つまり煙突を烽火台の屋根上3ヶ所、下に3ヶ所設置し、「以石灰飾其表裏」つまり石灰で隙間を埋めていた。蓋についての記述は見当たらないが、烽火台である以上、この煙突が煙を立てる目的で使用されていたのはおそらく間違いないだろう。つまり、唐時代における烽火台の「筒」とは、煙を上げるために設置された煙突だった可能性があるのだ。

 この推測を裏付けるためには、徂徠の書いている文章が本当に唐時代の制度を示しているかどうかを確認しなければならない。そのためにはまず徂徠の元ネタが何かを調べる必要がある。そして「録」巻18"http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/handle/10487/4746"の挿絵を見れば一目瞭然なのだが、彼の元ネタには間違いなく武經總要がある。
 そう思って調べると武經總要の前集巻5"https://archive.org/details/06047926.cn"に、まさに徂徠の元ネタが見つかる。武經總要は北宋時代の書物だが、その中には烽火の使い方に関する「唐法」(114/131)が紹介されているのだ。そこには「土筒四口」があり、そのサイズについての記述も、「造筒先泥裏後泥表」という表現も、まさに徂徠の説明通りだ(116/131)。
 そしてこの中には「凡応火土筒若向東応筒口西開」(118/131)という養老軍防令とほぼ同じ表現も出てくる。武經總要はこうした決まり事が「唐兵部有烽式」(114/131)だとしており、「唐兵部式と軍防令」"https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalha1951/1952/2/1952_2_73/_pdf"ではその他にも武經總要と養老軍防令とで互いに相当する項目が多くあることを指摘している(p75-77)。徂徠の記述と養老令とがいずれも同じソース、つまり唐時代の制度に由来していると考えても大丈夫そうだ。
 一方で武經總要は、今(つまり北宋期)の法が「李筌法同」だとも記している。李筌は太白陰經の著者であり、つまり北宋時代の烽火台は徂徠が紹介したようなものではなく、通典や太白陰經に書かれたもの(分かりやすい和訳はこちら"http://www.geocities.jp/fukura1234/bousyu/06.htm"の2参照)と同じだったのだろう。「唐兵部式と軍防令」では後者を「晩唐のもの」(p76)と推測している。
 ここから一つの想像ができる。もともと初唐の頃には徂徠が紹介した制度が使われており、そこでは烽火台で煙を立てるために使われた煙突を「筒」と呼んでいた。おそらく兵士たちの間でもこの用語が定着していたのだろう。晩唐になって制度が変わっても、その用語は使用され続けたのではないだろうか。いまだにPCなどで保存を意味するマークにFDが使われているように。そしてそれが文字として残ってしまったのが、通典や太白陰經に出てくる「安視(望)火筒」だったのではないか。
 烽火台は単独では意味をなさない。ネットワークを形成して、初めて存在意義を持つ。各烽火台にとって、自らが烽火を上げるだけでなく、隣接する烽火台を見張ることも大事な仕事だった。そして彼らが見るべきだったのは炎や煙であり、それを上げる煙突。見るべき対象物であった「火筒」とはまさに炎を上げる煙突だったのだと思われる。
 通典で「四壁開孔」とあるのも、敵の襲撃を受けた時に敵を見張ると同時に隣の烽火台の煙突から目を逸らさないための工夫だったのだろう。物陰に隠れながら隣の烽火台の煙突を「安全に視る」。そして煙を確認したら、自分たちも煙を上げて情報を伝える。そうした使用法を伝えていたのが通典や太白陰經の記述だったと考えられる。

 通典や太白陰經の「火筒」は煙突であって武器ではない。「火筒」が武器を意味するようになったのは行軍須知("http://www.library.yonezawa.yamagata.jp/dg/AA040_view.html" 20冊目)なる成立時期不明だが宋代のものと思われる書物になってからだ。そこに「用火筒火炮長鎗擂木手砲傷上城人」(46/64)と書かれていることは指摘済みだ"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55911279.html"。
 ここの火筒が武器の一種であることは、「火炮」や「長鎗」といった他の武器と一緒に紹介されていることからも間違いないだろう。ちなみに「擂木」とは我々の思い浮かべる「すりこ木」ではなく、こちらの写真"http://limkiwi22.pixnet.net/album/photo/49676919-29-%E6%AA%91%E6%9C%A8-weapon"にあるような防御兵器。梯子で登ってくる敵に対し、これを振り回して妨害したようだ。この武器は少なくとも唐代から使われていたことが、通典"http://ctext.org/library.pl?if=gb&file=53503"に記述がある(38/162)ことからも分かる。
 Needhamはこの行軍須知が成立した時期を13世紀と見ており(p170)、徳安で使われた火槍より新しい時期の武器だと考えている。こちら"http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/heisyo/sou/2.htm"によれば宋代のものであることは間違いないようだ。煙突を意味する「筒」が「火筒」という武器を意味する言葉に転じたのは、火薬発明後だったのである。
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