「飛火」の正体

 以前こちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55903407.html"で、Andradeが最初の火薬兵器として紹介した「飛火」について触れたことがある。904年の記録にあるこの武器を、Andradeは11世紀の虎經の記述を援用してfirebombs and fire arrowsと解釈したという話だ。それに対し、あくまでこの兵器は「可燃性物質に点火した後、投石機で投げた」とする見解も紹介した。
 実のところ、ネット上ではこの904年の記録を火薬と見なす意見が他にも数多く存在する。こちら"http://elearning.qcobass.edu.hk/~s015001/four/fire.htm"やこちら"http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/heikijiten/heikikaisetu/kasen.htm"にそうした記述があるし、英語でもこちら"https://en.wikipedia.org/wiki/Fire_arrow"のような例がある。実のところ、Needhamも「なお曖昧である」としながら何らかの形の火薬がおそらく使われていたという可能性は認めている("https://books.google.co.jp/books?id=hNcZJ35dIyUC" p85)。
 全体的には「飛火=火薬兵器」派の方が優勢に見えるが、彼らの弱点は論拠としている虎經が904年より1世紀も後の史料であること。虎經に「飛火者謂火炮火箭之類也」と書かれているのは間違いないが、だからと言って904年の飛火が「火炮火箭之類」であるとは限らないし、それにそもそも虎經の「火炮火箭」が火薬兵器であるかどうかも明白な証拠はない。それらの名称は火薬発明以前から存在する兵器を表すものかもしれないのだ。逆にこれらの用語がこの時期に初めて登場するなら、それは新しい兵器を意味している可能性が出てくる。

 では実際のところはどうなのか。まず予想できるだろうが、「火箭」という兵器は当然10世紀より前から存在していた。例えば三国志巻3"https://archive.org/details/06079869.cn"には魏略曰として「昭於是以火箭逆射其雲梯」(90/141)という記述がある。もちろん三国志の時代に火薬は生まれていない。従ってここに出てくる火箭は、普通に火矢を意味していると考えて問題ないだろう。
 唐初期にも使用例が出てくる。藝文類聚の巻50"http://ctext.org/text.pl?node=545265"に載っているある人物の墓碑銘には「朝飛火箭、夜聳雲梯」という言葉があり、これも火矢を示すものとみていいだろう。7世紀に成立した書物に出てくる火箭を火薬兵器と解釈するのは無理があるし、また火箭という言葉が三国志以降も継続的に使われていたことも分かる。以上から「火箭之類」が字面だけで火薬兵器を意味すると解釈するのが困難であることは自明であろう。
 同じことは「火炮」についても言える。この用語の使用例としては全唐詩の巻316"http://ctext.org/quantangshi/316/zh"に載っている武元衡の「出塞作」が挙げられる。こちら"http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/40691/1/ChugokuShibunRonso_26_Nomiyama.pdf"にある翻訳によれば「白羽、矢飛ぶこと火砲に先んじ」(p88)となる。
 武元衡"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%85%83%E8%A1%A1"は815年死去となっており、火薬そのものはともかく、火薬兵器自体はまだ存在しなかったとされる時代の人物だ。それもあってこちら"http://yakushi.umin.jp/publication/pdf/zasshi/Vol16-2_all.pdf"では火砲について「葦などの可燃性物を点火して投石機で敵陣中に投げたものではなかろうか」(p51)と推測している。やはり火砲を火薬使用の裏付けとするには無理があるようだ。
 そもそも砲という言葉がトレビュシェットを意味することは、これまでも指摘した通り。康熙字典"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%86%99%E5%AD%97%E5%85%B8"で砲の項目"http://xh.5156edu.com/kx/a40b74c15735.html"を見ると、唐書李密伝に「以機發石、爲攻城械、號將軍砲」"https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%96%B0%E5%94%90%E6%9B%B8/%E5%8D%B7084"とあることが紹介されている。ならば火砲という言葉から「可燃物を投げる」兵器を想定するのはおかしくない。
 そして904年の記録に出てくる「飛火」だが、実はこちらにも火薬発明以前の使用例がある。通典の兵5"http://ctext.org/text.pl?node=560934"がその事例で、そこには敵の火攻めから門を守る方法として芝草を積み上げて泥を厚く塗ることで「防火箭飛火」になるとはっきり書かれている。「飛火」が「火箭」と並んで書かれていることを踏まえるなら、「飛火」とは可燃性のものを投石機などで飛ばすことを意味していると考えてもおかしくない。
 通典"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%85%B8"が書かれたのは766-801年。これまた火薬発明以前の文献だ。この「飛火」に関する部分は李衛公兵法"http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=558548"にも載っており、こちら"http://history.people.com.cn/BIG5/n1/2016/0414/c372326-28277187.html"ではそれを論拠に、「飛火」は油や草といった可燃物を飛ばす兵器であって火薬とは異なると指摘している。
 つまり、火箭や火砲同様、飛火についても字面だけでそれが火薬兵器であると推測するのは無理があるのだ。確かに現代では火箭"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%AE%AD"がロケットを、火炮"http://baike.baidu.com/view/145645.htm"が大砲を意味するようになっているが、それは昔からの話ではない。飛火が火薬兵器であると主張するのなら、虎經以外にきちんとしたソースを示す必要がある。

 10世紀前半の記録が火薬兵器を示すには証拠不十分だとして、では同世紀後半の記録はどうだろうか。まずは宋史巻197"https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%8F%B2/%E5%8D%B7197"に載っている開宝3年(970年)の「時兵部令史馮継升等進火箭法、命試験、且賜衣物、束帛」。ここでもまた字面としては「火箭」しか出てこない。
 だがここで出てくる「火箭」がただの火矢でないことは分かるだろう。ただの火矢ならわざわざ試験などしないであろうし、衣物や束帛を下賜することもない。この「火箭」がそれまで存在しなかった何らかの新しい兵器であったからこそ、戦争で使われたわけでもないのにわざわざ史書に特筆されたと考えられる。そこに火薬の文字はないが、字面よりも文脈を見るなら、これが火薬兵器である可能性は十分にある。
 三朝北盟会編"http://ctext.org/library.pl?if=gb&file=7103"には、宋の太祖が唐(おそらく南唐)を平定した際、つまり975年に「火箭二萬隻金汁火砲様」(166/182)を使ったとの記録がある。このうち金汁火砲については、容器の中に溶けた金属を入れた金火缶法(武経総要に載っている)を用いたものだという指摘がある("http://yakushi.umin.jp/publication/pdf/zasshi/Vol16-2_all.pdf" p52)ので、火薬兵器ではないと思われる。ただ「火箭」については微妙。特段の記述はないが、時期的には既に火薬兵器が使われていたとも考えられる。
 同じことは宋史巻3"https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%8F%B2/%E5%8D%B7003"に出てくる「呉越国王進射火箭軍士」についても言える。こちらは開宝9年(976年)の出来事だが、こちらの「火箭」も三朝北盟会編のものと同様、それほど特別で特殊な存在であったようには書かれていない。ただ6年前に実験していた火箭法を受けて使われた兵器である可能性はあるため、これが火薬兵器だったと解釈するのも不可能ではない。証拠は不十分だと思うが。
 より明白なのは宋史巻197にある咸平3年(1000年)の記録だろう。そこには「神衛水軍隊長唐福献所製火箭、火球、火蒺藜」という言葉がある。武経総要に「引火毬」や「蒺藜火毬」という兵器が登場しており、それらはいずれも火薬を使った兵器だ。もちろんこれも時間を遡って解釈を適用する点では「飛火」と同じだが、やはり新たな兵器として製造したものを献上したという点で970年の「火箭」と相通じる特殊性がある。火薬兵器の可能性は高いだろう。
 これらに加え、10世紀後半から日宋貿易で硫黄が流通していたと見られる文献が存在することも踏まえるなら、宋代に入って火薬が兵器に使われるようになったのはおそらく確かだろう。11世紀になれば武経総要という明白な証拠が出てくるが、そこから遡る場合は10世紀後半までにしておくのが安全だと、個人的にはそう考えている。
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