グルーシーの2日間 6

 承前。de Witは一連のフランス軍の失敗について、そもそもの始まりはリニーの戦い直後にあったとしている。プロイセン軍の追撃も、また十分な偵察も行わず、敵は2日はまともに戦えなくなったと判断したことで、プロイセン軍との間に決定的な遅れが生じた。遅れて始まった偵察も見当違いの方向で行われ、結果としてプロイセン軍主力の位置特定に失敗している。グルーシーもまた、ワーヴルの敵を特定する直前までラ=シーズ方面にプロイセン軍がいると思い込むなど、間違った認識を持ち続けていた。
 これに加えて、グルーシーを派出した後のフランス軍内での連絡があまりに拙かった。プロイセン軍の主力がリニーからワーヴルへと後退していたことを、おそらくナポレオンは17日中に把握していたにもかかわらず、そのことをグルーシーに伝達しなかった。グルーシー自身も最初の報告を書いたのは17日の夜10時になってからであり、おまけに伝令が30キロの距離を11時間もかけて移動したためにナポレオンがこの報告に触れるのはさらに遅くなった。連絡ミスはフランス軍の状況把握と対応を一段と遅らせ、敗北への道を加速した("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/obs.grouchy-nap.pdf" p4)。
 もし連絡がもっと密に行われていたらどうなっただろうか。まずパジョル軍団の動向から見てみよう。彼が正午に書いた報告書("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/NAPOLEON.pdf" p12)からは、まず午前3時にプロイセン軍が陣地を撤収したのでその追撃に当たるという報告を副官を通じて行ったこと、さらにその後でプロイセン軍の後尾に襲い掛かって大砲8門などを奪ったことを既に知らせた旨、書かれている。
 これらの情報を帝国司令部が受け取ったのはいつだろうか。ナポレオンがネイに宛てて午前8時に口述した命令の中では、プロイセン軍が壊走しパジョル将軍がナミュール及びリエージュへの街道上を追撃していることが記されており(p1)、次いで午前9時から10時の間に書かれたダヴ―への手紙の追伸部でパジョルの直近の報告がマジー発であることに触れている(p4)。内容的に見て、前者の時点ではおそらく午前3時の報告しか届いておらず、大砲奪取後の報告は後者の前に到着したのだろう。
 だがその後、パジョルは正午まで報告を記さず、さらにその後はサン=ドニからマジーへ戻った後の、おそらくは日没前後の時間まで報告を書いた様子がない。少なくともグルーシーは正午の報告に書かれていた「今夜にはルーズに到着したい」(p12)という話を、エグゼルマンに対する午後7時の命令("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p5)でも繰り返しており、夜遅くになるまでパジョルはルーズへ向かったものと信じていた様子が窺える。朝方の頻度の高い報告が、なぜ途中から疎らな報告になってしまったのかは分からない。
 グルーシー側にもおそらく問題はあった。彼がパジョルの正午の報告を受けたのは、おそらくジェラールとともにリニーにいた時間帯だろう。既にジャンブルーへ向かうようベルトラン命令を受けていたのだから、その情報をパジョルに伝えるべきだった。だがグルーシーはそれを伝え損ねた可能性がある。もしその情報を知っていたなら、ジャンブルー方面に敵がいると聞いたパジョルがマジーまで引き返すことはなかっただろう。
 そしてルーズ方面にパジョルがいれば、エグゼルマンはもっと積極的にプロイセン軍の追跡を続けられたかもしれない。実際にはグルーシーがナポレオンへの報告(p8-9)に書いた通り、エグゼルマンはソヴニエールからワレン方面だけでなくペルウェ方面にも偵察を出さなければならなかった。ペルウェ方面をパジョルに任せられたなら、もっと多くの兵をワレンに差し向け、結果としてこの方面についてよりしっかりとした偵察ができた可能性はある。
 そもそも一度はプロイセン第3軍団を発見しながら、日中に彼らの行方を見失ってしまったことが、グルーシーにとってはかなり致命的だった。その意味では敵と接触していたエグゼルマンの責任は大きい。もちろん彼の部隊は追撃向きの軽騎兵ではなく竜騎兵だったが、それでも接触する努力はすべきだった。にもかかわらず午後5時から6時にかけてソヴニエールに到着した後、彼はそこで足を止めてしまう。その理由が、ペルウェ方面にいるかもしれない敵を警戒したことにあったのだとしたら、パジョルの不在は結構大きな意味を持っていたことになる。
 プロイセン軍後衛部隊は午後4時から5時の間にジャンブルーを撤収し、そこからボードセ、ワレン、ニル=アバス(ニル=ピエルー付近)を経てコルベ、ラ=バラーク、ワーヴルと進んだ("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/THIELMANN.pdf" p2)。もしエグゼルマンが追撃に全力を挙げていれば、史実より早い段階でワーヴル方面こそプロイセン軍のいる場所であることを掴めた可能性はある。だがペルウェ方面に敵がいるかもしれないと思えば、そう簡単に横っ腹を晒して追撃を続けることはできなかっただろう。
 ソヴニエールからラ=バラークまでは現代の地図で15キロほどはかかりそうで、17日のうちにそこまでたどり着くのは困難だろう。だが史実でボヌメンがトゥランヌまで進みながらそこからエルナージュへ退却を強いられたのに比べると、より多くの兵力で進んでいればプロイセン軍後衛部隊と小競り合いをしても簡単に退くことなく敵の動きを観察できたと思われる。うまくすれば日付が変わる頃までにプロイセン軍の集結地点がワーヴル方面である可能性をグルーシーに報告できたかもしれない。
 そうなっていれば、グルーシーの対応もおそらく変化しただろう。彼は敵の動向が分からないため、17日夜の時点では翌日の出発時刻を(夜明けより2時間も遅い)午前6時とし、おまけにワレンまで前進したところでそこで長時間にわたって足を止めている。もし朝からワーヴルを目的地としてまっすぐ進んでいたらどうだったか。ジャンブルーとワーヴル間は現代の地図で20キロ弱。時速2.5キロだと8時間かかる。夜明けと同時に出発していれば、正午にはワーヴルに到着できた計算だ。
 その頃、プロイセン軍では先行する第4軍団がシャペル=サン=ランベールで休息中であり("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/flankmarch.pdf" p4-5)、第1軍団に至ってはようやく出発命令を受け取ったばかりだった(p11)。プロイセン軍と英連合軍の間に入り込むという目的は達成できないものの、本隊に対するプロイセン軍の圧力を史実より減らせた可能性はある。

 ただ、これだけ仮定に仮定を重ねてグルーシーにとって都合のいい状況を作っても、なおプロイセン軍がワーテルローに到着すること自体を防げないのは確かだ。どうしても追いつけない部分は、結局最初に述べているようにリニーの戦い直後にフランス軍が陥った無為が原因。それをグルーシーの努力だけで埋めることはおそらく不可能であろう。
 ナポレオンがリニーの戦い後に「手を抜いた」のは、プロイセン軍が6月19日以降にならなければ戦える状態まで回復しないと判断したのが理由("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/obs.grouchy-nap.pdf" p1)。さらにその背景には、彼自身が(そして連合軍も)ブリュッセルの先まで含めたより広範囲な戦場を視野に入れていた点があるようだ。実際、グルーシーの報告でもしばしばブリュッセルでの英連合軍とプロイセン軍との合流が指摘されており、より広い戦場を動き回る必要性が当然のごとく生じると思っていた節がある。
 結果を知っている我々は、なぜリニーの直後から追撃を行わなかったのか、せめてもっと幅広く偵察をしていればと考える。だがナポレオンの感覚的には、リニーの勝利がそれによってブリュッセルまでたどり着く道が開かれたと確信するに十分だったのかもしれない。そしてあれだけ多くの戦いを経験してきたナポレオンの感覚を後知恵だけで否定するのは、さすがにちと躊躇われる。
 もちろんその感覚は間違っていた。だからこそナポレオンは人生最大の敗北とセント=ヘレナへの島流しという恰好でその咎めを受けた。グルーシーはそのとばっちりを被ったに過ぎない。彼自身の敗北に対する責任が皆無というつもりはないが、やはり責任の大半はナポレオンにある。それも「無能な人物を登用した」というタイプの責任ではなく、もっと直接的に「リニーの勝利を過大評価し、プロイセン軍の能力を過小評価した」ことが要因だ。
 そう考えるなら、やはりたった1回の戦役でグルーシーが無能だと決めつけるのは問題がありそうだ。
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