グルーシーの2日間 5

 承前。この日の午前10時前、ル=カイユの司令部にいたナポレオンはグルーシーが前日午後10時に書いた報告をようやく受け取った。彼がスールトに書かせた命令では、まずグルーシーが書いているプロイセン軍部隊の他に、ジェリとジャンタンヌ(いずれもソンブルフ北方の村)を経てワーヴルに向かった部隊がいたはずだと指摘。皇帝がこれから英国軍を攻撃するつもりであることを記したうえで、本隊に接近し連絡を取るためワーヴルへ前進し、その方面のプロイセン軍を駆逐するよう命じた。一方、右翼側(グルーシーが指摘していたペルウェ方面)の敵については見張るだけにとどめよとも記している。最後にスールトは再び本隊と連携し、連絡を密にするよう、改めて求めている("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/frhfdkw(1).pdf" p4)。
 命令を受けたグルーシーはおそらくワーヴルへの前進を急がせる必要を感じたのだろう、ジェラールとともにラ=バラークまで下がってジェラール軍団の後続部隊の行軍がどうなっているか確かめようとした。なかなか部隊が現れない中、午後4時半にグルーシーは副官を送って前進を急がせる手配をし、部隊が現れればビエルジュへ向かうよう差配するための士官をラ=バラークに残し、先にワーヴル対岸に向かったヴァンダンムに合流するべく出発した("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/walhain.wavre.pdf" p6)
 午後4時過ぎにワーヴル対岸に到着したヴァンダンムは、グルーシーの次の命令を待つことなくすぐに攻撃を始めた。午後4時45分、ラ=バラークから到着したグルーシーはヴァンダンムが指示に従わなかったことにかなり苛立っていた。川を利用したプロイセン軍の防御は強力で、ヴァンダンム師団の攻撃は跳ね返された("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/wavre.1.pdf" p8-9)。
 午後5時、ジェラール軍団が左翼のビエルジュ方面に到着して攻撃を始めた。だがこちらでも攻撃はうまく進まず、午後5時半すぎには事態を打開しようと自ら先頭に立ったジェラールが負傷し、後方へと下げられた。そこにワーヴル対岸を6時頃に発ったグルーシーがやって来て、部隊に待機を命じた。その時、午後6時から7時の間に、スールト参謀長が午後1時に記した命令をグルーシーは受け取った("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/wavre.1.pdf" p9-10, 18)。
 この命令はグルーシーが午前6時に送った報告を受けて書かれたものだ。そこではグルーシーがワレンを経てコルベからワーヴルへ向かおうとしていることが皇帝の意図に沿ったものであることを認め、改めて本隊に接近し敵が間に入り込む前に連絡を取るべく努めるよう求めている。ところがこの命令を執筆中、捕らえられたプロイセン軍士官が帝国司令部に連れてこられ、既にプロイセン軍の一部がナポレオンとグルーシーの間に入り込んでいたことが判明。スールトは「奪ったばかりの手紙に、ビューロー将軍が我々の右側面を攻撃するという内容が書かれていた。この部隊がサン=ランベールの高地にいるのを我々は見たと思われる。我々に接近して合流し、ビューローを打ち破るのに参加するため、一時も無駄にしてはならない」("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/intro.pdf" p4-5)との追伸を記し、本隊の位置も付け加えて命令を送った。
 今や本隊との連携ではなく合流が必要となったグルーシーは、ビエルジュよりさらに左翼側にあるリマールを攻撃する決断をし、ジェラール軍団の残り2個師団をそちらに差し向ける決断をする。同時にパジョルに対し、テスト師団とともにリマールへ向かうよう命令を出した。時間はほぼ午後7時になっていた("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/wavre.1.pdf" p10)。
 ラ=バラークへ向かえという命令を午後3時半に受け取ったパジョルは、午後6時半にこの目的地に到着し始めた。続いて届いたグルーシーの命令に従ってパジョルはリマールへと進み、その前衛部隊は午後8時にリマールの橋にたどり着いた("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/wavre.1.pdf" p11)。
 一方、グルーシー自身も午後7時にはリマールに向けて出発。以後、彼はこの日が終わるまでリマールで指揮を執った。真夜中時点でリマールからヴァンダンム宛の命令を書いていることからも、グルーシーがリマールにとどまったのはおそらく間違いないだろう("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/wavre.1.pdf" p16-17, 18)。この地を守っていたプロイセン軍の戦力は少なく、リマール及び隣村のリムレットはパジョルとテスト、及びジェラール軍団の2個師団によって確保された。グルーシーはディールの渡河点を手に入れたが、その時には既にナポレオン率いる本隊は決定的な敗北を喫していた。

 18日の動きを見ると、まずそれまでいくつかある可能性の1つでしかなかった「プロイセン軍のワーヴルへの退却」がクローズアップされたところが要注目だろう。17日時点ではワーヴルの名前はほとんど登場せず、夕方になってジャンブルー到着後のヴァンダンムの報告書にようやく出てきたくらいだが、その際にもペルウェやアニューという他の地名と並列で言及されていたに過ぎない("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p2)。
 夜10時にグルーシーが書いたナポレオンへの報告では2つの部隊のうち一方がワーヴルへ向かったとの見解が出てくるが、それでもこの時点では主力でない部隊の移動先だと思われていた("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p8-9)。夜の間に届いた情報を受け、18日午前6時に出した報告でようやく明白にワーヴルへ向かうという意図が言明されることとなった("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/grouchy.pdf" p2)。
 だが実はこの時点で、なおグルーシーはプロイセン軍の正確な位置を把握してはいなかった。ワレンに到着した後、午前11時に記した報告書に繰り返し出てくる「ラ=シーズの平野」という記述が、この時点でグルーシーが抱いていた推測が間違っていたことを示している。プロイセン軍はワーヴル北東のラ=シーズ平野にいるのだから、自分たちがワーヴルを押さえればウェリントンとブリュッヒャーの間を絶つことができる。それがグルーシーの見込みだった("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/walhain.pdf" p1-2)。だがゴドセールズらがもたらしたこの情報は、間違いだった。
 グルーシーが誤りに気付いたのは、おそらく正午頃だろう。エグゼルマンの報告でワーヴル付近にプロイセン軍が集結していることを知り、初めて敵の正確な位置が分かった。だがこの時点ではもはや遅すぎたと考えられる。彼はそれからすぐに動き出してワーヴルのプロイセン軍を攻撃したが、彼らがディール川を渡った頃には既にモン=サン=ジャンのフランス軍は破断界を迎えていた。
 同じことはジェラールが提案した午前11時半時点での「砲声に向かって前進」策についても言える。ワレンからフランス軍主力の右側面に当たるプランスノワまでの距離は、現代の地図で24キロほど。こちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55142591.html"に書いたように、砲兵など車両の移動速度を考えれば、たとえ途中でプロイセン軍による妨害が一切なかったとしても最短で8時間はかかる距離だ。出発までの準備時間を考えるなら、どんなに早く戦場に到達してもちょうど主力が壊走を始めた瞬間に遭遇することになる。実際にワーテルロー戦役では時速2.5キロほどの行軍が行われていたことを考えるなら、グルーシーが述べたように日没前に増援に駆けつけるのは極めて困難だっただろう。
 どうしてもたどり着きたければ車両や大砲を置き去りにし、歩兵と騎兵だけで疾走するしかない。それならうまくいけば6時間で到着し、親衛隊の突撃直前にプロイセン軍の背後に出ることが可能になる。だがそんな決断ができるのは神様だけ。後知恵ならともかく、現実に1815年6月18日午前11時半の時点でそんな判断を下せる人間は存在し得ないと見ていいし、何よりベルトラン命令に書かれていた「絶えず1リュー以内に」部隊をとどめておけという命令に反することになる。机上の計算ならともかく、現実にはあり得ない想定だ。

 以下次回。
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