ジャンブルーの敵についても対応は極めて鈍いものだった。ナポレオンがジャンブルーにいる3万人の敵についての最初の情報を受けた時間は不明だが、それを知った後にのんびりと前日の戦場巡りを行い、パリの政治情勢について話していた可能性がある。もちろん、一方ではパジョルがナミュール街道上でプロイセン軍の大砲を奪ったとの情報もあったわけで、どちらに向かうか判断がつきにくかった可能性はある。だがジャンブルーとナミュールへ向かう街道が分かれるポアン=デュ=ジュールへと第3及び第4軍団を行軍させることはできただろう。しかしナポレオンがそれを命じたのはようやく午前11時頃だ。
一方でこの日のグルーシーの行動には無理もない面がある。少なくとも彼の手元にある情報からは、プロイセン軍がどこにいるか、正確なことは分からなかったのだ。17日夜の時点で得た情報については彼自身がまとめているのだが、その内容は以下の通り。
「約3万人の戦力を持つ敵は十分混乱したまま退却を続けている。エグゼルマン将軍は400頭以上の牛を捕らえた。
敵はワーヴルの方向へ後退しており、可能ならウェリントンと合流するためサル=タ=ワレンとトゥランヌなどを経てブリュッセルへの道を再び取ろうとしていることを示しているように見える。彼らはまたサル=タ=ワレンの方向へ向かうべく多くの兵をボード[ボードセ?]上流に迂回させている。
ソヴニエールで彼らは2つに分かれた。強力な縦隊はペルウェの道を取っており、おそらくプロイセン軍の一部はウェリントンと合流し、それ以外はブリュッヒャーの軍であることを示している。
全てがブリュッセルへの道を求めている。今夜、エグゼルマンはボヌメン将軍の騎兵6個大隊をサル=タ=ワレンへ、他の3個をペルウェへ派出すべきだ。ソヴニエールとボード上流を占拠していたプロイセン軍はグラン=レを経てオルベへ移動した。彼らはローマ街道をマーストリヒト方面へ向かった」
ベルトラン命令に書かれていた「ナミュールもしくはマーストリヒト」という選択肢からナミュールがほぼ消え、代わりにワレン経由ブリュッセル行きという新しい可能性が生まれてきたことが分かる。だがブリュッセル方面と、ペルウェからマーストリヒトという2つの道のうち、どちらが本命であるかはグルーシーも決めかねていたようだ。ワレン方面へ多くの偵察を送り出しながらも、ブリュッヒャー自身はペルウェ方面へ向かったとも見ている。彼の躊躇いがよく分かる。
この躊躇いが、翌日に向けた命令に影響を与えていた可能性はあるだろう。とりあえず北方のワレンまで前進する。そこからなら敵がペルウェに向かっていた場合でも東に道を転じればそれほどの遠回りにはならない。敵がブリュッセルへの道を進んでいるなら、ワレンからさらに北へ向けて進めばいい。敵の位置が分かるまでは両にらみで行こう。そんな声が聞こえてくるような判断だ。
だが実際にはペルウェ方面にプロイセン軍はいなかった。ブリュッヒャーの4個軍団は全てワーヴルに集結し、18日夜明けにはモン=サン=ジャンに向けての行軍を始めようとしていた。
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