グルーシーの2日間 3

 承前。18日の流れの説明に入る前に、ここまでの動きをまとめておこう。まず重要なのは、グルーシーが独立した指揮官として行動を始める前に、17日のうち半分が過ぎてしまっていた点だ。ベルトラン命令が彼のところに到着した正午頃の時点まで、グルーシーは基本的にナポレオンの直率下に置かれており、皇帝の命令通りに動いていた。そしてその間に行われたのは、パジョルとエグゼルマンによる追撃というよりは単なる偵察だけであり、結果としてプロイセン軍は「15時間と20キロメートルに及ぶ巨大なリード」("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/obs.grouchy-nap.pdf" p4)を得ていた。
 騎兵部隊が最初はナミュール街道だけに送り出されたことは既に指摘している。de Witによると他の方面にはほとんど偵察が出されなかったらしい("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/OBS.NAPOLEON.pdf" p2)。なぜフランス軍が、というかおそらくはナポレオンが、ナミュール方面にのみ焦点を絞り、北方ワーヴルを含めた他の方角をろくに調べようとしなかったのかは不明だが、この失敗のためジャンブルーのプロイセン軍にすら気づくのが遅れ、ワーヴル方面の敵については全く把握できない状態が長く続いた。
 ジャンブルーの敵についても対応は極めて鈍いものだった。ナポレオンがジャンブルーにいる3万人の敵についての最初の情報を受けた時間は不明だが、それを知った後にのんびりと前日の戦場巡りを行い、パリの政治情勢について話していた可能性がある。もちろん、一方ではパジョルがナミュール街道上でプロイセン軍の大砲を奪ったとの情報もあったわけで、どちらに向かうか判断がつきにくかった可能性はある。だがジャンブルーとナミュールへ向かう街道が分かれるポアン=デュ=ジュールへと第3及び第4軍団を行軍させることはできただろう。しかしナポレオンがそれを命じたのはようやく午前11時頃だ。
 そもそもグルーシーにプロイセン軍を追撃させることが決まったのが午前10時半だったのが遅すぎたのだろう。その意味ではキャトル=ブラの情勢を読み誤ったこともこうした遅れの原因かもしれない。この日の午前7時半から8時の間にはネイの下に送られていたフラオー大佐が司令部に戻っており、キャトル=ブラの状況は分かっていたはずなので、本来ならその時点でナポレオンは今後の方針を決めるべきだったのだろう("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/NAPOLEON.pdf" p1)。戦場跡見学などで費やした3時間は、かなり無駄な時間だったと言わざるを得ない。
 ではグルーシーの対応に問題はなかったのか。皆無とは言えないだろう。例えば彼はポアン=デュ=ジュールへ部隊を前進させる際に、最初にヴァンダンム軍団を、その後にジェラール軍団を移動させた。地図"https://www.clausewitz.com/readings/1815/Wagner-Ligny.htm"を見れば一目瞭然だが、リニーにいたジェラールの方がサン=タマンのヴァンダンムよりポアン=デュ=ジュールに近い。効率よく部隊を移動させるなら、ジェラールを先行させた方がよかった("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p3)。
 より問題なのはパジョルとの間の連絡が不十分だったことだ。パジョルはサン=ドニまで前進した時に初めてジャンブルーの敵に気づき、おそらくはそれを理由にマジーへと後退した。もしエグゼルマンの動きについてきちんとパジョルに伝えられていれば、彼らは後退する必要もなく、より効率よく偵察ができたかもしれない。こうした連携を図るのは彼らの上官だったグルーシーの役割だ("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/OBS.NAPOLEON.pdf" p2)。
 連絡不十分という意味ではグルーシーとナポレオンとの間についても同じだ。こちらはもちろんグルーシーだけの責任ではなく、ナポレオン側にも問題がある。だがグルーシーも、騎兵によるジャンブルーとキャトル=ブラ間の連絡路確立を命じられていたにもかかわらず、18日早朝までその作業をヴァラン将軍に命じなかった("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/OBS.NAPOLEON.pdf" p7)。各部隊間の情報伝達に生じたトラブルは最終的にフランス軍が敗北する一因となっており、その責任の一端がグルーシーにあることは否定できない。
 一方でこの日のグルーシーの行動には無理もない面がある。少なくとも彼の手元にある情報からは、プロイセン軍がどこにいるか、正確なことは分からなかったのだ。17日夜の時点で得た情報については彼自身がまとめているのだが、その内容は以下の通り。

「約3万人の戦力を持つ敵は十分混乱したまま退却を続けている。エグゼルマン将軍は400頭以上の牛を捕らえた。
 敵はワーヴルの方向へ後退しており、可能ならウェリントンと合流するためサル=タ=ワレンとトゥランヌなどを経てブリュッセルへの道を再び取ろうとしていることを示しているように見える。彼らはまたサル=タ=ワレンの方向へ向かうべく多くの兵をボード[ボードセ?]上流に迂回させている。
 ソヴニエールで彼らは2つに分かれた。強力な縦隊はペルウェの道を取っており、おそらくプロイセン軍の一部はウェリントンと合流し、それ以外はブリュッヒャーの軍であることを示している。
 全てがブリュッセルへの道を求めている。今夜、エグゼルマンはボヌメン将軍の騎兵6個大隊をサル=タ=ワレンへ、他の3個をペルウェへ派出すべきだ。ソヴニエールとボード上流を占拠していたプロイセン軍はグラン=レを経てオルベへ移動した。彼らはローマ街道をマーストリヒト方面へ向かった」

 ベルトラン命令に書かれていた「ナミュールもしくはマーストリヒト」という選択肢からナミュールがほぼ消え、代わりにワレン経由ブリュッセル行きという新しい可能性が生まれてきたことが分かる。だがブリュッセル方面と、ペルウェからマーストリヒトという2つの道のうち、どちらが本命であるかはグルーシーも決めかねていたようだ。ワレン方面へ多くの偵察を送り出しながらも、ブリュッヒャー自身はペルウェ方面へ向かったとも見ている。彼の躊躇いがよく分かる。
 この躊躇いが、翌日に向けた命令に影響を与えていた可能性はあるだろう。とりあえず北方のワレンまで前進する。そこからなら敵がペルウェに向かっていた場合でも東に道を転じればそれほどの遠回りにはならない。敵がブリュッセルへの道を進んでいるなら、ワレンからさらに北へ向けて進めばいい。敵の位置が分かるまでは両にらみで行こう。そんな声が聞こえてくるような判断だ。
 だが実際にはペルウェ方面にプロイセン軍はいなかった。ブリュッヒャーの4個軍団は全てワーヴルに集結し、18日夜明けにはモン=サン=ジャンに向けての行軍を始めようとしていた。
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