「我らの永遠の敵」。Chuquetはプロイセンの政治家の言葉を紹介している("Hoche and the Battle for Alsace" p1)。彼が「敵」呼ばわりしたのは、この時戦争をしていた相手、つまりフランス、ではない。同盟国たるオーストリアだ。
1793年のアルザス戦役を描いたChuquetの本を読んでよく分かるのは、対仏同盟で歩調を合わせていた筈のプロイセンとオーストリアが相互に示した極めて非協力的な態度だ。戦役の大半の期間を通じて戦況は連合軍側にとって極めて有利だったにも関わらず、両国は互いに足を引っ張りあった。連合国の仲の悪さというのはいつの時代でもどんな場所でも見られるものだが、この両国も例外ではなかった。というか、これだけ仲の悪い連合軍というのもおそらく珍しいだろう。
背景にあるのは、しばしば指摘されていることだが、ポーランド問題である。プロイセンとオーストリアは対仏戦争では互いに協力する仲であったものの、ポーランドについてはむしろ対立する関係にあった。上に引いた政治家は、第二次ポーランド分割後にこう言っているという。「我々は欲しいものを手に入れた。ポーランドに我等の領土を得た。後はオーストリアに単独で戦争を続けさせればいい」("Hoche and the Battle for Alsace" p1)。
1793年の第二次ポーランド分割に参加したのはロシアとプロイセン。オーストリアは分割には加わらず、そのためもあってか分割に抵抗するポーランドを裏で支援するような動きを見せたという。それを察知したプロイセンが不快感を抱き、結果としてアルザスでの戦争に非協力的になった。
プロイセンの言い分が勝手だと思うのならば、それは一面的に過ぎる。オーストリアもまた領土欲まみれの行動を取っていた。彼らは第二次ポーランド分割には参加しなかったものの、一方対仏戦争ではアルザスを神聖ローマ帝国領土に戻そうと試みていたのだ。下アルザスに攻め込んだ11月14日、彼らは旧体制(フランスの王政ではなく神聖ローマ帝国領だった時代)への復帰を訴える宣言を住民向けに出した("Hoche and the Battle for Alsace" p3)。数年前の体制ではなく、100年近く前(フランスがアルザスを取得したのは1697年)に戻ろうと呼びかけたのである。
オーストリアの所領拡大のために駆り出された格好になったプロイセンが非協力的な対応を取ったのも分からなくはない。プロイセン軍の指揮官ブラウンシュヴァイク公は、国王から積極的な行動は一切取るなと命じられたほど。また、オーストリア軍の指揮下に組み入れられたコンデ公麾下のフランス亡命貴族軍がオーストリアに対して批判的であった理由も分かる。彼らは革命政権下で苦しむ人々を助ける解放軍のつもりだったのに、実際は外国(オーストリア)からの侵略者の尖兵と見られていたのだ。
連合軍を率いた指揮官たちの性格の差も戦況に影響を及ぼしていた可能性がある。プロイセン軍を率いたブラウンシュヴァイク公は「控え目で、分別があり、計画的かつ熟考するタイプで、あらゆる面で安定しており、確立した原則にのみ沿って行動し、絶えず手続き規則に従う」("Hoche and the Battle for Alsace" p143)人物。一方のヴルムゼルは「将軍というよりはパルチザンの戦士で、賢く計画された作戦より大胆な一撃を好んだ。彼は困難を無視した。自分自身のアイデアに揺ぎない自信を持っており、側近の忠告も決して彼の決断を変えることはできなかった」("Hoche and the Battle for Alsace" p143)。
対照的な性格の持ち主である彼らは、それぞれの国家方針もあって相容れない活動を延々と続けた。連合軍が優勢にある際にはヴルムゼルが積極的な攻撃に出ようとしたのに対してブラウンシュヴァイクが国王の命令を楯に前進を拒み、フランス軍の逆襲を受けた時には抵抗を求めたブラウンシュヴァイクを振り切ってヴルムゼルはさっさとライン右岸へ逃げ出した。最終的な連合軍の敗北にどちらがどれだけの責任を負うかについては色々と意見があるだろうが、どちらも無罪でないことは確か。逆に言えばフランス軍の勝因の一つとして連合軍の連携ミスがあるということだ。
ヴルムゼルはまさにアルザスの出身。当時はアルザス出身でオーストリア軍に身を投じた人物も大勢いたため、彼だけが特殊な存在という訳ではない。ナポレオンによれば「ライオンのように勇敢な」人物だったが、Chuquetが記しているように将軍としての能力には疑問を呈する人が多い。もちろん中にはこちら"http://www.historydata.com/biographies/wurmser.html"のようにヴルムゼルを「腕のいい戦術家」と呼ぶものもいるが、おそらく少数派だ。「制服だけでなく気質と習慣においてもユサールだったヴルムゼルは、いつも真っ直ぐ、無分別に、全力で突撃した」("Wissembourg" p63)。当時のユサール(軽騎兵)は決闘と賭け事と酒と女に明け暮れる連中として有名であり、プロイセンのブリュッヒャーやフランスのラサールがそうだったようにヴルムゼルもそういう人物との評判を得ていたようだ。
ヴルムゼルの正面にいたのはライン軍である。彼はこの部隊に何度も正面から攻撃を仕掛けた。効率よくフランス軍を撃退したければライン軍とモーゼル軍の継ぎ目を狙い、そこを突破した後でライン軍の背後に回りこむのがベストだっただろう。特にモーゼル軍は北方軍への援軍増派後は大幅に兵力が落ち込んでいただけに、ここを突くのは当然の選択だった。だが、モーゼル軍の前面に展開していたプロイセン軍は国王の命令もあってほとんど動かず。何度かフランス軍の戦線を崩壊させかけた場面もあったが、その度にブラウンシュヴァイク公は積極的な活動を止めた。頼りにならない味方をヴルムゼルは「不実な連合軍」("Wissembourg" p74)と呼んで非難したものの、事態は改善されなかった。
ブラウンシュヴァイク側にも言い訳はある。彼は自分の意思ではなく国王の命令に従っただけだ。特に国王側近のマンシュタインの影響が大きく、ブラウンシュヴァイクは「たとえ私が駄馬1頭を敵に奪われただけだとしても、マンシュタイン大佐は大騒ぎするに違いない」("Wissembroug" p107)と愚痴をこぼしたほど。こんな不名誉な仕事は続けたくないと辞任も考えたようだが、そうするだけの意思の強さもなかったという。
それでもヴルムゼルとオーストリア軍はほとんど独力でヴィサンブール線(今の独仏国境付近にあった防衛線)を突破。下アルザスを占拠することに成功した。だがその頃には1793年も暮れようとしており、軍隊を冬営させる必要性が高まっていた。ヴルムゼルは最前線に近い位置で冬営しようと計画。ブラウンシュヴァイクは「戦線があまりに長く、簡単に突破される」("Hoche and the Battle for Alsace" p8)からもっと後退した場所で冬営するよう忠告したが、ヴルムゼルは政治的判断もあってこれを聞き入れなかった。
結論から言えばブラウンシュヴァイクは正しかった。ブラウンシュヴァイク自身がカイザースラウテルンへ下がったこともオーストリア軍の戦線を危険に晒す一因となった。11月、ライン軍の攻撃が始まると薄く長く延びたオーストリア軍の戦線は大きな損耗を蒙り、そしてオッシュのモーゼル軍がその右側面へ攻撃を振り向けた時にとうとう戦線は崩壊した。
オーストリア軍の崩壊を見たブラウンシュヴァイクは「だから何度もザウエル河の背後に下がるべきだと言ったのだ! 彼[ヴルムゼル]は肉体的にそうであるのと同じくらい、精神的にも耳が聞こえない状態だ!」("Hoche and the Battle for Alsace" p97)と嘆いた。そして少しでも事態の打開を図るべくオーストリア軍に対して新しい防衛線を敷くよう要請する。それだけではなく、ある時にはプロイセン軍と隣接して戦っていたオーストリア軍が崩壊しかけた場面に自ら駆けつけて彼らを鼓舞することまで行った。公が部隊の先頭に立ったのを見たオーストリア軍の士官たちは「これで問題はなくなった」と囁き交わし、兵士たちは「ヴルムゼルくたばれ、ブラウンシュヴァイク万歳!」と叫んだそうだ("Hoche and the Battle for Alsace" p117)。
局面が異なれば、彼らの連携は大きな成果を上げたかもしれない。慎重で計画的なウェリントンと勇敢で大胆なブリュッヒャーが、ワーテルローでナポレオンを撃退したように。だが、1793年戦役における彼らの組み合わせは無残な失敗に終わった。それが彼らの運命だったのだろう。
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