グルーシーの2日間 2

 承前。午前9時前にジャンブルー近くに到着したエグゼルマンは敵の状況を確認。その時点で敵が動いていないこと、動き出せば追撃することを伝えたうえで、竜騎兵に軽騎兵のような仕事をさせることに対する長々とした苦言を追伸に記した報告を10時15分にまとめた("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/NAPOLEON.pdf" p14)。フランス軍司令部にとっては待ち望んでいた情報だった。
 ナポレオンはエグゼルマンの情報を受け、まだスールトが到着していなかったので、すぐベルトランに命令を口述させた。内容は、微妙な違いはあるものの、こちら"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/waterloo_ber.html"で翻訳したものとほぼ同じだ。一方、グルーシーは副官のベラをエグゼルマンの下に送り出している("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/REDISTRIBUTION.pdf" p3-4)。
 正午にかけ、グルーシーはリニーでジェラールと再会した。彼はポアン=デュ=ジュールへ向かえというナポレオンの命令を彼に伝えたと思われる。サン=タマンのヴァンダンムに対してはド=ブロックヴィユ大佐が伝令として送られた("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p1)。
 リニー到着の少し後、グルーシーの下にジャンブルーへ行軍するようにというベルトラン命令が到着した。彼はこの後、午後2時半頃までジェラールとともにリニーにとどまり、おそらくは改めて彼の配下に入った軍の移動についての手配を進めた。その間、パジョルが正午に記した報告書が彼の下に届いている("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p1)。
 パジョルは朝方のプロイセン騎馬砲兵襲撃の後、さらに東のイネまで進み、そこからナミュールに近いタンプルーなど各方面に偵察を送った。そこでプロイセン軍がサン=ドニを経由してナミュール=ルーヴァン街道(現代のN91)上のルーズまで退却したことを知り、その情報を正午の報告書にまとめた。その後、彼は実際にサン=ドニへと進み、ムーまで偵察隊を出している。その時点でジャンブルーに3万人規模のプロイセン軍がいることを知ったパジョルは、マジーへと戻る決断をした("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/NAPOLEON.pdf" p12-13)。
 午後2時半、手配を終えたグルーシーはリニーを出発。午後3時頃に最初の目的地であるポアン=デュ=ジュールに到着した。そこで彼はジャンブルーのエグゼルマンの下に送り出した副官ベラと再会。ベラはジャンブルーに午後0時45分頃に到着し、2時15分頃にそこを出発したという。彼がジャンブルーにいた間にプロイセン軍がそこを出発し、エグゼルマンがその追撃を始めようとしていたことがグルーシーに知らされた("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p1)。
 グルーシーがポアン=デュ=ジュールに到着した直後、ヴァンダンムの前衛部隊もそこに到着した。行軍は先にヴァンダンムの第3軍団が進み、それにジェラールの第4軍団が続くという恰好で行われた。道が悪く、おまけに雨が降り始めたこともあって行軍には時間がかかり、ヴァンダンムの最初の部隊がジャンブルーに入ったのは午後5時半。移動速度は時速2.5キロにとどまった。後続のジェラール軍団はさらに遅れ、最初の部隊がジャンブルーに到着したのは午後7時、最後の部隊の目的地到着は午後9時半になったという("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p2-3)。
 プロイセン軍の最後の部隊がジャンブルーを去ったのは午後4時から5時の間。エグゼルマンはその後を追ってジャンブルーに入り、さらにジャンブルー北東にあるソヴニエールまで前進した("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p4)。だが彼はプロイセン軍を十分に追撃しようとはしなかったため、せっかく位置を把握していたプロイセン第3軍団の行方はこの後で再び分からなくなる。この点はde Witからも批判されている("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/OBS.NAPOLEON.pdf" p2-3)。
 グルーシー自身がジャンブルーに到着したのは午後7時。彼はソヴニエールのエグゼルマンに対し、プロイセン軍の動きについてできる限り早く詳細な情報を伝えるよう命令を出している。この命令文中には書かれていないが、de Witはグルーシーがエグゼルマンに対してペルウェとサル=タ=ワレンに偵察を出すよう命じたと推測している("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p5-6)。というのも午後7時半にエグゼルマンは配下のボヌメン旅団をワレンへと送り出す決断をしているためだ(p4)。
 午後7時から8時の間に、グルーシーはジェラールに対しても命令を出した。ボテイに残っている第4軍団の騎兵部隊を翌日夜明けにグラン=レへと出発させるように命じたもので、上に記したエグゼルマンへの手紙と同様にプロイセン軍がペルウェに退却している情報があるという話も載せている("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p6-7)。
 マジーへ戻ったパジョルからの報告は、午後10時前にはグルーシーに届いた。また、ワレンに向かったボヌメン旅団は、ワレン北東のトゥランヌにプロイセン軍を発見した。そこで1時間ほどの小競り合いがあり、ボヌメンはワレン南西のエルナージュへと後退した("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p4)。この情報を含めたエグゼルマンの偵察結果はおそらく午後8時から10時の間にグルーシーにも伝わった(p7)。
 騎兵からの偵察結果を受けたグルーシーは、午後10時に翌日の対応について配下に命令を出した。パジョルに対しては夜明けにグラン=レへと向かいそこで命令を待つこと、ナミュール街道をタンプルーまで偵察し敵の動きを探ること、軍はサル=タ=ワレンへ向かうが情報次第ではペルウェに向かう可能性もあることを伝えている。ジェラールには翌朝8時にサル=タ=ワレンへ向かうよう命じ、ペルウェとワレンへの偵察次第でその後の方針を決めると連絡している。ヴァンダンムにはジェラールより先の午前6時にサル=タ=ワレンへ出発するよう伝え、パジョルへの命令内容も知らせている。さらにヴァンダンムに対する追加命令では、ジェラールが到着できるようサル=タ=ワレンを通り過ぎるよう命じている("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p7-8)。
 これらの手配が終了した後で、グルーシーはようやくナポレオンに対し、午後10時の時間が記されている報告書を記した。彼は自分たちの位置と、3万人の敵が退却を続けていることにまず言及し、続いてプロイセン軍が2つに分かれて一方はワーヴルへ、もう一方はペルウェに向かっていると述べたうえで、プロイセン軍の一部がウェリントンに合流しようとしている一方で、ブリュッヒャーの主力はリエージュとさらに一部はナミュールへ退却しているとの見方を示している。もしプロイセン軍主力がワーヴルに後退しているのならその方面へと追撃することでウェリントンとの合流を阻止するが、そうでなくペルウェに向かっているのなら自分たちもそちらへ向かうと方針を示し、最後にティールマンの第3軍団がリニーの戦いに参加していたこと、ブリュッヒャーが負傷したが彼自身はジャンブルーへ向かわなかったことに言及し、報告を終えている("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p8-9)。
 この手紙が書かれていた午後10時頃、フランス軍の最前線にいたボヌメンは、プロイセン軍が8時半にはトゥランヌから撤収したことを、地元の農民から知らされた。彼は10時15分にこの内容を記した報告書を書いてエグゼルマンに連絡("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p4-5)。この報告は真夜中にかけてグルーシーの下に届いた(p9)。
 もう1つ、この日の夜にエグゼルマンが送り出した偵察があった。ボヌメンが偵察に出されたのと同じ時にペルウェへ派出されたシャイヨ大佐の指揮する第15竜騎兵連隊は、途上で捕らえた捕虜や農民たちからプロイセン軍がワーヴルに向かっていることを知り、すぐにそれを連絡したという("https://books.google.co.jp/books?id=Zh1pIG509MMC" p49)。果たしてこの情報は、いつエグゼルマンに届いたのだろうか。
 de Witはシャイヨがソヴニエールを出発し、サンク=エトワールを経てローマ街道を1.2キロほど進み、それから左に転じてペルウェに至ったと見ている("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p14)。現代の地図で調べるとおよそ10キロの距離だ。日没時であり、騎兵のみでも2~3時間はかかった可能性がある。彼らの出発がボヌメンと同じく午後7時半だとしたら、その情報がエグゼルマンに届いたのは午後10時かそれ以降。グルーシーが指揮下の部隊やナポレオン相手に手紙を書いた時間には間に合わない。敵の向かった方角に関するこの重要な情報がもたらされる前に、6月17日は事実上終わったと言える。

 以下次回。
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