騎兵からの偵察結果を受けたグルーシーは、午後10時に翌日の対応について配下に命令を出した。パジョルに対しては夜明けにグラン=レへと向かいそこで命令を待つこと、ナミュール街道をタンプルーまで偵察し敵の動きを探ること、軍はサル=タ=ワレンへ向かうが情報次第ではペルウェに向かう可能性もあることを伝えている。ジェラールには翌朝8時にサル=タ=ワレンへ向かうよう命じ、ペルウェとワレンへの偵察次第でその後の方針を決めると連絡している。ヴァンダンムにはジェラールより先の午前6時にサル=タ=ワレンへ出発するよう伝え、パジョルへの命令内容も知らせている。さらにヴァンダンムに対する追加命令では、ジェラールが到着できるようサル=タ=ワレンを通り過ぎるよう命じている("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p7-8)。
これらの手配が終了した後で、グルーシーはようやくナポレオンに対し、午後10時の時間が記されている報告書を記した。彼は自分たちの位置と、3万人の敵が退却を続けていることにまず言及し、続いてプロイセン軍が2つに分かれて一方はワーヴルへ、もう一方はペルウェに向かっていると述べたうえで、プロイセン軍の一部がウェリントンに合流しようとしている一方で、ブリュッヒャーの主力はリエージュとさらに一部はナミュールへ退却しているとの見方を示している。もしプロイセン軍主力がワーヴルに後退しているのならその方面へと追撃することでウェリントンとの合流を阻止するが、そうでなくペルウェに向かっているのなら自分たちもそちらへ向かうと方針を示し、最後にティールマンの第3軍団がリニーの戦いに参加していたこと、ブリュッヒャーが負傷したが彼自身はジャンブルーへ向かわなかったことに言及し、報告を終えている("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p8-9)。
de Witはシャイヨがソヴニエールを出発し、サンク=エトワールを経てローマ街道を1.2キロほど進み、それから左に転じてペルウェに至ったと見ている("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/GROUCHY.pdf" p14)。現代の地図で調べるとおよそ10キロの距離だ。日没時であり、騎兵のみでも2~3時間はかかった可能性がある。彼らの出発がボヌメンと同じく午後7時半だとしたら、その情報がエグゼルマンに届いたのは午後10時かそれ以降。グルーシーが指揮下の部隊やナポレオン相手に手紙を書いた時間には間に合わない。敵の向かった方角に関するこの重要な情報がもたらされる前に、6月17日は事実上終わったと言える。
以下次回。
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