祖国は危機にあり(La patrie en danger) 関連blog
グルーシーの2日間 1
2016
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07
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08
ナポレオニック
エマニュエル・グルーシー"
http://www.napoleon-series.org/research/biographies/marshals/c_grouchy.html
"の歴史的評価は、1815年6月17日と18日のたった2日間だけで決まってしまった。それまで積み上げた実績は全て無視され、ワーテルロー戦役で失敗したという点のみを理由に批判を浴びることとなり、それが今でも続いている。
グルーシー自身の対応も問題があった。本当は文章に書かれた命令を受け取っていたのに口頭での命令しかなかったと述べたり"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/45657874.html
"、ジェラールとの論争で信頼できない史料を出してきたり("
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/53589589.html
"など)と、批判に対して誠実さとは程遠い対応をしてきた。自己弁護をするのは当然だがそのやり方があまりに問題含みであり、これでは信用されなくても仕方ない面がある。
ただしグルーシーの言い分に間違いが多いからと言って、それだけで彼が敗因と決めつけるわけにもいかない。あくまで当時の状況を踏まえたうえで、グルーシーの判断がどれだけ結果に影響を及ぼしたかをきちんと把握することが肝心だ。
そこでPierre de WitのThe campaign of 1815: a study"
http://www.waterloo-campaign.nl/
"を活用し、17~18日の2日間にグルーシーがどこで何をやっていたのかを再現してみる。de Witの指摘がどこまで正しいかという問題こそあるものの、ソースをここまで詳細に示しているものは他には見当たらない。グルーシーの立場になって、この2日間に何があったのか描き出してみよう。ちなみに20世紀のものだが、こちら"
http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/belgium_50k/
"のNamurとGemblouxの地図は参考になる。
1815年6月17日
16日にフランス軍とプロイセン軍の間で行われたリニーの戦いが終了した後、グルーシーがどこで夜を過ごしたのかについては詳細な記録がないという("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/NAPOLEON.pdf
" p15)。ただ彼がフランス軍最右翼を構成していた予備騎兵(パジョルの第1騎兵軍団とエグゼルマンの第2騎兵軍団)を指揮していたのは確か。おそらくはトンルネルかボワネー村近辺、あるいはフルリュスからポアン=デュ=ジュールへ至る街道上のどこかで過ごしたのだと思われる"
https://www.clausewitz.com/readings/1815/Wagner-Ligny.htm
"。
午前2時半、プロイセン軍の後退によってがら空きとなったトンリネの村をパジョルの部隊が占拠し、それを知ったパジョルは午前3時に副官をグルーシーの下に送り出してその事実を伝えた。さらに彼はナミュール方面への追撃を始める。ボテイ近くでナミュール街道に出た彼は、街道に沿って東へ進んだ("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/NAPOLEON.pdf
" p11-12)。
パジョルにナミュール方面の偵察を命じたのが誰であるかについては議論があるが、de Witは彼の上官であるグルーシーが命令を出したと推測している。時間は夜明け頃だ。ただしこの命令については、後にナポレオンが何の変更も加えていないため、おそらくは皇帝の示唆によって出されたものではないかという("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/OBS.NAPOLEON.pdf
" p2)。
ボテイとマジーの間でパジョルはプロイセン軍の騎兵と騎馬砲兵、及び補給物資を運ぶ80~90両の車両からなる部隊と遭遇し、これを襲撃した。その際にロボーの第6軍団に所属するテスト師団の兵に支援を受けたという。大砲8門全てを奪ったパジョルはこの成功を伝える報告をグルーシーに送った。時間は午前4時("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/NAPOLEON.pdf
" p12)。
同じ頃、エグゼルマン軍団のベルトン旅団がポリオー(ポンリオー?)からナミュール街道に出てパジョルの後を追うように東へ向かった。午前5時半頃、彼はマジー西方のオルノー河畔で、プロイセンの大戦力がジャンブルー(マジー北方)近くにいるという情報を得た。リニーの戦い後にプロイセン軍のまとまった動きをフランス軍が把握したのは、おそらくこれが最初。彼は行軍を止め、この情報をエグゼルマンに知らせた("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/NAPOLEON.pdf
" p13)。
その少し前、午前5時頃にグルーシーは、パジョルがナミュール街道でプロイセン軍を捕虜にしたことを知った。彼はそれをすぐ皇帝に伝えたという("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/NAPOLEON.pdf
" p2)。
午前6時15分、エグゼルマンがベルトンの連絡を受けた。彼はすぐ第2騎兵軍団の残りを率いてベルトンと合流する決断をし、またグルーシーにこの情報を連絡して、6時45分にポアン=デュ=ジュールを出発した("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/NAPOLEON.pdf
" p14)。プロイセン軍を見張るべくジャンブルーへ前進するというエグゼルマンの報告がグルーシーの下に届いた時間ははっきりしないが、おそらく午前7時過ぎあたりだろう("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/NAPOLEON.pdf
" p2)。
午前7時半前、フルリュスにいたナポレオンは戦場の視察に出かける決断をし、参謀長のスールトを通じてグルーシーに同行するよう連絡を入れた("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/NAPOLEON.pdf
" p1)。ナポレオンはテスト師団にパジョルを支援させる手配をしたうえで、おそらく合流したグルーシーとともに午前8時45分に戦場跡の視察へと出発した("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/NAPOLEON.pdf
" p2)。
彼らがサン=タマンからリニーへ向かおうとした途上、ブリーの高地で第4軍団長のジェラールも合流した。ここでナポレオンはグルーシー及びジェラールらとパリの政治情勢について長い会話を交わしたという("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/NAPOLEON.pdf
" p2)。10時半、ネイからの情報を得た皇帝はグルーシーにプロイセン軍を追撃させる決断をしたが、どちらの方向に向かうべきかはまだ決めなかった("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/NAPOLEON.pdf
" p8)。
午前9時から10時の間にナポレオンはダヴ―への手紙を口述させた。その中に「直近のパジョルの報告はマジー発だった」("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/NAPOLEON.pdf
" p3)という一文がある。de Witはこれを根拠に捕虜を得たというパジョルの報告をナポレオンが受けたのはこの頃だと書いている(p8)。グルーシーと合流していながら、なぜこの頃までパジョルの報告を受けていなかったのか、理由は不明。またジャンブルー方面にプロイセン軍を発見したというエグゼルマンの報告がいつ皇帝の下に届いたかもよく分からない。
午前11時頃にかけ、ナポレオンは第3及び第4歩兵軍団をポアン=デュ=ジュールに向かわせるようグルーシーに命じた。この地点はナミュール街道とジャンブルーへの街道が合流する場所であり、パジョルとエグゼルマンがそれぞれの方向を偵察していた("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/REDISTRIBUTION.pdf
" p2-3)。この点はグルーシーの副官であったベラの証言("
https://books.google.co.jp/books?id=a0wUAAAAYAAJ
" Appendice. Quatrième Série. p40)などを論拠としているのだろう。
命令を受ける数分間の会話を終えるとグルーシーは11時から11時半の間にリニーへと向かうべくナポレオンの下を去った。直後、ナポレオンはグルーシーに与える兵力について考えを変え、参謀長のスールトが近くにいなかったため、その旨を知らせる命令をベルトランに書かせた。第3軍団所属の軽騎兵師団(ドモン指揮)と、ミローの第4騎兵軍団をグルーシー配下から外し左翼へ向かわせるという内容だ("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/REDISTRIBUTION.pdf
" p3)。
グルーシーはリニーのジェラールのところへ向かう途上でこの命令を受け取った。続いて彼はフルリュスからナポレオンの下へ向かっていたスールトと遭遇。さらにその少し後に、エグゼルマンがジャンブルー付近で午前10時15分に書いた報告(後述)がグルーシーのところに届いた("
http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june17/REDISTRIBUTION.pdf
" p3)。彼はすぐにその内容をナポレオンに伝えた。
長くなったので以下次回。
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