スペインの火器・上

 ChesneyがObservations on the past and present State of Firearms"https://books.google.co.jp/books?id=KCZYAAAAcAAJ"の中で主張する「スペインでの古い大砲使用例」は、1118年のサラゴサだけにとどまるものではない。14世紀前半になれば欧州に火器が到達したのは明らかであるが、それ以前にも大砲があったとする例を彼はいくつも挙げている(p42-43)。だがそれぞれについてどのようなソースに基づく主張なのかは示していない。
 例えば1118年のサラゴサの直後に紹介している「サラモニカと名付けられた4ポンド口径のカルヴァリン砲は1132年に製造された」(p42)という指摘。カルヴァリン砲と呼ばれる大砲が最初に言及されたのは、こちら"https://books.google.co.jp/books?id=AoIsUnTgQHQC"によれば1410年(p53)とされており、Chesneyの指摘とは280年近くもずれている。さて、どちらが正しいのか。

 英語でサラモニカと名付けられたカルヴァリン砲についてgoogle bookを調べてみても、Chesneyよりも古い言及は見当たらない。一方でスペイン語ならもう少し古いのもある。前回も紹介したこちらの本"https://books.google.co.jp/books?id=WTpkAAAAcAAJ"の中に、確かにculebrina Salomonicaという言葉が入っている。1132年に鋳造された4口径の銃砲で「マドリードにその記録が存在するが、その存在が事実かは分からない」(p17)というのがその内容だ。
 残念ならがこの1831年に出版された本以前にサロモニカに言及したものは見つからなかった。「マドリードの記録」というのがいかなるものかも不明だ。だがこの本が出された後、この正体不明のカルヴァリン砲に関する記述はスペイン語の書物に何度も登場するようになる("https://books.google.co.jp/books?id=das6AAAAcAAJ"のp29、"https://books.google.co.jp/books?id=lejUMtD2eyYC"のp39、"https://books.google.co.jp/books?id=vjYMAQAAMAAJ"のp79、"https://books.google.co.jp/books?id=qFxNAAAAYAAJ"のp154など)。そこでは最初にサロモニカについて言及したと思われる著者が慎重に付していた「存在が事実かどうかは分からない」という留保はなくなっている。
 それだけではない。19世紀半ばになると「サロモニカ」そのものとは言わないが、それと同時代の大砲がどこからかマドリードの大砲博物館に姿を現すようになる。1856年に出版された同博物館のカタログ"https://books.google.co.jp/books?id=rXlPzStRkCEC"に、3264というナンバーを記された大砲の説明が掲載されている。曰く「言い伝えによれば[中略]1118年に行われたナヴァラのサラゴサ及びトゥデラ攻略に使われた鍛鉄製のロンバルダ[ボンバルダ]砲身1本」(p343-344)。そして脚注には12世紀に火器が存在していた論拠としてCondeの本、1132年に鋳造されたと言われるサロモニカの存在などを記している。
 だが一方でこのカタログには明白な矛盾もある。ナンバー3264の大砲はボンバルダ"https://es.wikipedia.org/wiki/Bombarda_(arma)"の一種であると説明していながら、その直前では「14世紀半ばからロンバルダあるいはボンバルダの名で呼ばれるようになった」(p343)とも書いているのだ。
 そもそもロンバルダと呼ばれた大砲は、カーニャと呼ばれる砲身部分と、レカマラと呼ばれる薬室部分に分離できるのが特徴だった(p344n)。上に紹介したwikipediaにもそうした指摘はある。実際、このナンバー3264は砲身部分だけであり、3265(1259年に使用とされる)と3266(同1309年にジブラルタルで)も同じ。一方で3267は薬室部分のみがあり、実際に分離して使用できるものが博物館に収蔵されていたことが分かる。
 だがこうした「後装式」火器が生まれたのは火器の欧州伝来より後だ。Needhamによれば最初の後装式火器が欧州で登場したのはおそらく1364年("https://books.google.co.jp/books?id=hNcZJ35dIyUC" p366)。ヴグレール"https://en.wikipedia.org/wiki/Veuglaire"と呼ばれたこの火器はロンバルダ同様、砲身と薬室が分離できる構造になっており、再装填が容易だったという。スペインのロンバルダだけがブルゴーニュのヴグレールより2世紀以上も早かったと考えるのは無理がある。
 ナンバー3264の描写に「箍と金輪」fajas y arosとあるのも、上のwikipediaに載っている図"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Canon.XIVe.siecle.png"を彷彿とさせる。実際の写真"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Veuglaire_-_Ch%C3%A2teau_de_Castelnaud_-_20090926.jpg"を見てもそうなのだが、当時の大砲は強度を増すために砲身にたがを嵌めることが一般に行われていた。マドリードの博物館にあったロンバルダとは、実際はヴグレールと同じものだった可能性は十分にある。
 19世紀のスペインの歴史家Duroは、Disquisiciones nauticas"https://books.google.co.jp/books?id=CmYFAAAAMAAJ"の中でこのカタログに触れ、ナンバー3266と3246(1342年に使用したとされる)はその起源を裏付ける論拠を述べておらず、3265については3264同様に言い伝えしか論拠を示していないと手厳しい指摘をしている(p17n)。いずれも古い時代に存在していたことを立証するには証拠不十分だと考えるべきだろう。
 それにしてもChesneyによる紹介はここでもいい加減だ。彼はサロモニカについて「4ポンド口径のカルヴァリン砲」culverin of 4-lb. calibreと呼んでいる。だがスペイン語で書かれた文章では「4口径」calibre de a cuatroとしか書かれていない。ここで言われる「4口径」とはつまり口径長"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A3%E5%BE%84"を意味すると考えられる。Chesneyがなぜ「ポンド」という重さの単位を付け加えたのか、理由は分からない。

 それ以外にもChesneyは多くの事例を示している。それらについて言及すると長くなるので大半は次回に回すとしよう。ただ、彼が紹介しているもののうち、具体的な地名が出てこない1249年にエジプト人が描写したという記録、あるいはサラセン人の歴史なる書物に紹介された1291年の事例については、実のところ詳細は不明だ。そもそもそこに出てくる著者たちの正体がよくわからない。
 ただこちらの本"https://books.google.co.jp/books?id=twTwgmQgdywC"によれば1248-49年にアイユーブ朝のアル=サリーが使った、及び1291年にアクル攻囲でスルタンのアル=アシュラフ=ハリルが使った投石機trebuchetが、いずれも巨大な岩石を撃ち出していたことで知られている。もしかしたらそうした記録を砲兵と解釈した可能性はある。
 もう一つ考えられるとしたら、Casiriがアラブ語の手稿からラテン語に翻訳したBibliotheca arabico-hispana Escurialensis("https://books.google.co.jp/books?id=VvhfAAAAcAAJ"と"https://books.google.co.jp/books?id=QvhfAAAAcAAJ")が関係しているかもしれない。Casiriは元になった手稿が1249年に書かれたと考えていたが、Reinaudが1世紀後の1349年のものであると指摘し("https://books.google.co.jp/books?id=15m7w4fyd90C" p66n)、HimeとPartingtonもそれに同意している。Chesneyが彼らの指摘ではなくCasiriの考えを採用していたことも考えられるかもしれない。

 Chesneyの指摘の妥当性についてはもう少し調べてみるので以下次回。
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