ランヌの死 論争

 「旬が終わった」。ナポレオン漫画ではランヌによるナポレオン批判についてこうした言い回しで表現している。ランヌが死ぬ時にナポレオンを非難したという話については、メッテルニヒがそう主張している事例を紹介したこともある"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55747987.html"。そして面白いことに、このランヌの最期の言葉に関しては、実は1つの論争が存在する。

 その論争はこちら"http://www.napoleon.org/en/history-of-the-two-empires/articles/how-history-is-written-marechal-lannes-last-words-to-napoleon/"で読むことが可能だ。一方はランヌが最期にナポレオンを非難したとする史料は信頼できないと主張し、もう一方はその説が妥当であると反論している。そして両者の焦点となっているのは、ガサクールが記して1818年に出版されたVoyage en Autriche"https://books.google.co.jp/books?id=U4rYql1mf7YC"という書物である。
 同書によればランヌはナポレオンに対し「君は重大な失敗をしでかし、それによって最良の友人を奪われようとしているが、それでも君は変わらないだろう。君の強欲な野心が君を終わらせる。君は自らに最もよく仕えた者たちを、必要もなく、注意を払わず、後悔もせずに犠牲とする。君の忘恩は君を尊敬する人々をまさに遠ざけ、君の周囲に残るのはおべっか使いだけだ。君に敢えて真実を告げようとする友人は一人もいない。君は裏切られ、見捨てられるだろう。戦争を早く終わらせろ。それが君の将軍たちの、そして人民の希望だ」(p127)と述べたという。
 だが出版の6年前、1812年に書かれたガサクールの手書き原稿には、実はこの一文はないという。手書き原稿を持っている人物によれば、原稿は306ページに及ぶもので、おそらくオリジナルではなくその写しだが、オリジナルにあった訂正も全て書き留めてあるという。そしてこの原稿のp133には、出版本のp124にある文章が記されており、その直後にいきなりp127最下部の「6月6日」という日付まで文章が飛んでいる。3ページ強に相当する文章が、手書き原稿にはなく、だが出版物には記されているわけだ。
 なぜ原稿にない文章が出版の際に挿入されたのか。3つの推測が挙げられている。まず、王政復古下では反ボナパルティズムの姿勢を見せなければ出版できなかったために、ナポレオン批判の文章が挿入されたとの説。次にこの不名誉な譲歩の代わりに著者がレジオン・ドヌール勲章を受けたとの説。最後に、すでに帝政下で広まっていたランヌの非難の噂を著者が採用したとの説。3番目の推測を除けば、実はランヌはナポレオンを非難しなかったという結論になる。
 そしてランヌによるナポレオン非難説を否定している人物もいる。1人はペレ。1825年に出版された彼の回想録"https://books.google.co.jp/books?id=si1oICZIWlIC"によれば、死ぬなと呼びかけるナポレオンに対してランヌは「もしなおもあなたと、そしてフランスの役に立てるのならば、生きたいと思います。ですがおそらく1時間もすれば、あなたは最良の友人を失うことになるでしょう」(p335)と答えたことになっている。
 同じ立場なのがマルボだ。彼は回想録"https://books.google.co.jp/books?id=0pUvAAAAMAAJ"で、「何人かの悪意を持った人物が、ランヌ元帥は皇帝を非難し、戦争をやめるよう要請したと書いている」ことを認めたうえで、ランヌの言葉を聞いていた人間として「それは間違いだと宣言する」としている。マルボの書き記した内容はペレの前半部と似ており、「もしまだフランスと陛下のお役に立てるなら、生きていていたいと思います」(p203)と述べたそうだ。
 証拠は他にもある。1つはラレイの回想録"https://books.google.co.jp/books?id=ZKJjU1lid7YC"で、彼はランヌの負傷からその死去までの期間について結構詳しく記している(p278-284)が、その中にランヌによるナポレオン批判の文章は見当たらない。さらにナポレオン自身もセント=ヘレナで、ランヌがナポレオンを非難したとの話を聞いて「何とばかげた話だ! ランヌは私を敬慕していた。彼は疑いなくこの世界で私が最も頼りにできる人間の1人だった」("https://books.google.co.jp/books?id=3eDt27KH2zMC" p256)と述べている。

 以上のような論拠を基にランヌが死の床でナポレオンを非難したという話は疑わしいという主張に対する反論も、このサイトには載っている。そこでまず紹介されたのはナポレオンの近侍であるコンスタンの回想録"https://books.google.co.jp/books?id=mBFAAAAAcAAJ"である。それによればコンスタンはランヌが死ぬ前日に、彼から皇帝に会いたいと言われて皇帝を呼んだという。そしてコンスタンは半分開いていた扉を通じ、ほぼガサクールが書いたものと同じ内容の会話を聞いた(p118-119)。コンスタンこそガサクールの情報元になったのだろうと、反論した人物は書いている。
 一方、マルボの回想録については文章中に「皇帝は担架のそばに膝をつき」(Marbot, p202-203)とあることから、そこに掲載されている会話は負傷時のものであって死去する際のものとは違うとも指摘。さらにコレンクールの回想録"https://books.google.co.jp/books?id=a0twCwAAQBAJ"に出てくる「彼[ランヌ]は英雄として死んだが、裏切り者としての行為を続けた」というナポレオンの台詞、さらにはグールゴー"https://archive.org/details/saintehlnejo00gouruoft"が書き留めた「[ランヌは]ネイ同様に、それが利益になるなら腹の中をぶちまける人間だ」(p83)といった言葉も、ランヌがナポレオンを非難したことを示す状況証拠になるとしている。
 この反論に対する再反論は以下の通りだ。まずコンスタンの回想録は1830年出版であり、ガサクールより遅い。コンスタンの本に書かれている文章がほぼガサクールと同じである点から見るに、コンスタンがガサクールから引用した可能性は高い。またコンスタンの回想録はゴーストライターらによってでっち上げられたものとして知られており、真剣に読むべきものではない。さらにコンスタンの行為は当時の指揮系統から完全に外れている。ナポレオンの個人的近侍であり、それ以外に何の権限も持たない人物が、なぜ元帥と皇帝の仲介役を果たしているのか。
 一方、マルボの回想録に対する指摘は正しい。だがランヌの副官だったマルボはその後もしばしばランヌの近くにいたはずであり、ラレイ同様に誰よりもランヌの言った台詞を伝えられる立場にあった。マルボもラレイも、コンスタンがランヌの下を訪れたとは述べていない。そしてコレンクールの記録した発言については、エアフルト会議の前にランヌの軽率なおしゃべりによってアレクサンドル皇帝がナポレオンの「平和的意図」に対して疑問を持ったことに対する当てこすりであったという文脈を踏まえる必要がある。

 色々と入り組んだ論争になっているが、基本的にランヌによるナポレオン非難が証拠不足だと言われれば認めざるを得ないだろう。一方にガサクールやコンスタン、他方にマルボ、ラレイ、ナポレオンを置いて、彼らのどちらがランヌの言葉をより直接に聞ける立場にあったかを考えれば、どう見ても後者の方が信頼度の高い目撃者になる。要するに前者の発言は信頼度の劣る二次史料であるか、さもなくば「でっち上げ」である可能性が否定できないのだ。
 時間的に見てもしかり。紹介されている一連の史料のうち、最も古いのは1812年に書かれたというガサクールの手書き原稿、及び同年に出版されたラレイの本だ。そのどちらにもランヌの非難の発言が書かれていないことは無視できない。記憶違い、勘違い、意図的な嘘といったものは、時間が経過するにつれて紛れ込む確率が高くなる。古いものの方が一般的に信頼度は高いのだ。
 私自身はガサクールの手書き原稿を見ていないため、そこでは本当にランヌの発言が載っていないのかどうか確認することはできない。だがその点が事実であるならば、ランヌの非難発言は後になってでっち上げられたと考える方が蓋然性は高いだろう。ランヌは、確かに口が悪く軽率な発言もしたかもしれないが、死の床にあってナポレオンを非難したことが史実だとするには証拠が不十分だと言わざるを得ない。
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