中国火薬兵器の発展・下

 前回までに、主にAndradeの本に基づいて中国での火薬兵器発達を整理してみた。これを踏まえ、その発達過程を自分なりに図にしてみると、以下のようになる。



 まず火薬の発明についてはAndrade、Needhamらの9世紀説以外に10世紀も記しておいた。「中国,宋代における火器と火薬兵」"http://yakushi.umin.jp/publication/pdf/zasshi/Vol16-2_all.pdf"が指摘する「唐代、五代にはいまだ火薬を用いたことを記した確たる原典は見られない」(p52)事実、及びNeedhamが脚注で紹介している真元妙道要略の10世紀成立説(Needham, p112)が10世紀説の論拠だ。
 真元妙道要略が930年頃に成立したのだとして、火薬が武器に使われるようになった時期として考えられるのは10世紀後半からになる。この時期から新しい火箭の開発が始まったことを示す記録がいくつも残されるようになっていること"https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%8F%B2/%E5%8D%B7197"、加えて以前にも指摘したが、10世紀後半から日宋貿易で硫黄が取引されていた記録が出てくることが理由だ。
 この時期の火薬はAndradeが指摘するように、燃焼のために外気から酸素を取り込む必要があった。火矢などはその典型だし、11世紀の武經總要"http://ourartnet.com/Siku_03/0726/0726_032_009/index.htm"に載っている各種の火薬兵器も同じ。基本的にこの時期の火薬兵器は「炎と煙」が主な攻撃手段であり、爆発や弾丸の発射といった機能が使われていた様子はない。研究者たちが指摘しているように、硝石比率が低く酸素供給に限度があったため、密閉したり筒の内部に入れて使うのは困難だったことがその原因だろう。従って敦煌タペストリーの10世紀半ば成立説は採らない。
 こうした「開放型」の火薬兵器が変化したことが確実に裏付けられるのは12世紀。竹に詰めて使う「密閉型」の爆竹、同じく竹に詰めて火花を飛ばす「管型」の火槍は、いずれも遅くとも12世紀前半には登場していた。おそらく11世紀を通じて硝石比率が次第に高まり、外気からの酸素供給がなくても燃焼できるようになったのだろう。そうなれば、燃焼時に体積が271.3倍に増加する("http://yakushi.umin.jp/publication/pdf/zasshi/Vol13-2_all.pdf" p45)黒色火薬の能力を、単なる「炎と煙」以外に使用できるようになる。
 新たに登場した2種類の兵器のうち、先に発展したのは「密閉型」の方だ。当初は竹や、もしかしたら紙(霹靂砲)で包まれていた「密閉型」兵器は、12世紀後半とされる民話の中で「火缶」を使った兵器へと発展を遂げる。武經總要には金火缶法という陶製の容器に熱して液体状となった金属を入れた兵器が登場しており、Andradeは民話に出てくる火缶もまた陶製容器であろうと想定している。より堅牢な容器を使うことで、火薬が爆発する際の破壊力を増したわけである。
 民話ではなくしっかりとした史料が登場するのは13世紀前半。鉄製の容器に火薬を入れた「鉄火砲」、鉄または陶器を使った「震天雷」といった兵器を金軍が使用したことが記録に残っている。この時点でこれらの兵器は「爆弾」や「榴弾」と呼べるだけの機能を持つようになったと思われる。なお鉄で作った爆弾が欧州でも見られるようになるのは15世紀になるらしい(Needham, p179)。
 一方「管型」火薬兵器は「密閉型」に比べると進化が遅かったように思える。火槍の中に散弾のようなものを入れたEruptorの登場事例は、13世紀の飛火槍や突火槍まで見られない。ただし西夏銅火銃の成立年代が本当に13世紀初頭なら、文献記録よりも前に割と大きな弾丸を入れて撃ち出す金属製の「管型」兵器が登場していたことになるわけで、だとすればこちらの進化も「密閉型」と比べてそれほど遅かったわけではないのかもしれない。
 真の銃砲は遅くとも13世紀末には登場した。爆弾よりは遅かったが、爆弾が「容器の強化」だけで成立したのに対し、銃砲は「弾丸の登場」と「管の強化」という2つの要素がそれぞれ進化しなければならなかったために時間がかかったのかもしれない。そしてこちらは14世紀前半には早々に欧州へと伝わり、すぐ戦争に使われるようになった。

 以上、あくまで大雑把な理解のためにまとめてみた。より詳しく流れを追いたければ、Needhamの本(p4)や「中国,宋代における火器と火薬兵」(p68)にある図が役立つだろう。
 興味深い点が2つある。1つは「竹の存在」が大きな意味を持っていたということ。「密閉型」も「管型」も、最初は竹という容器を使ったことはおそらく間違いないだろう。それ以前の「開放型」でも霹靂火毬のように竹と組み合わせた兵器があった。もし中国に竹がなければ、たとえ硝石比率が上昇してもそんなに簡単に「密閉型」「管型」の兵器は誕生しなかったかもしれない。
 もう1つは欧州への伝播における銃砲と爆弾のタイムラグだ。銃砲が中国での登場からほとんど間を置かず、四半世紀から半世紀ほど遅れて欧州でも使われるようになっていたのに対し、鉄製の容器に入った爆弾は中国より200年以上も後にならないと欧州では登場しない。キーザーの書物には、欧州人が中国人と同じように色々な容器に火薬を入れる実験をしていたことが書かれているそうで(Needham, p179)、そもそも爆弾については中国から情報が伝わらなかった可能性はある。
 あるいは火薬の生産量の問題かもしれない。欧州にとっては火薬自体が新しいもので、その生産体制も14世紀末以降にようやく整ったと見られる。それ以前は戦争時に高価な火薬をちまちま使う必要があり、そのために少ない火薬で効果が期待できる銃砲が優先的に使用されたのかもしれない。一方、中国では遅くとも1150年頃には硝石丘の存在が記録に残されているうえに、それ以前から硝石丘があったことも確認されている(Needham, p98)。おそらく火薬の価格も安かっただろう。
 Andradeが指摘するように欧州では14世紀後半から15世紀にかけて城壁破壊に火器が使われたことも、爆弾の採用が遅れた要因になったかもしれない。実体弾を飛ばす銃砲は、その弾丸が持つエネルギーをそのまま城壁にぶつけることができる。だが「爆弾」は火薬の爆発によって容器の破片を四方に飛ばす仕組みであり、個々の破片が持つエネルギーは小さい。城壁の下に火薬を埋め込む地雷ならともかく、榴弾については欧州の戦場では優先度が低かったのだろう。
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