中国火薬兵器の発展・中

 承前。中国における火薬兵器の発展について主にAndradeの著作"http://press.princeton.edu/titles/10571.html"に従って調べている。密閉された容器に火薬を詰め込む「爆発物」は、12世紀前半の爆竹(爆仗)から始まり、ほぼ100年後には震天雷まで発展してきたのを見た。祭の演出に使う小道具から殺傷力の高い兵器に至るまで、たった1世紀で急速な進歩を遂げたことが分かる。
 では完全に密閉するタイプでなく、筒に入れる方の火薬兵器はどう発展してきたのか。よく言われる管形兵器の進化には、爆発物よりも多少時間がかかったように思える。

 前にも書いた通り、1132年には徳安城の防衛に火槍が使われている。次にAndradeは魏勝の「火石炮」を火槍の一種として紹介しているが、この見方が正しいかどうかは分からない。それからAndradeは触れていないが、火槍にかかわる逸話として宋史反臣伝"https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%8F%B2/%E5%8D%B7477"に出てくる李全の持つ「梨花槍」がある。1231年に死んだ李全は「二十年梨花槍、天下無敵手」だったそうだ。
 この李全が持っていた梨花槍については、後の明代の武備志"http://ctext.org/library.pl?if=gb&file=28672"に図(7/121)と説明(8/121)が載っている。見たところ、普通の槍に火薬を詰めた筒を結びつけたような形状であったようだ。またこちら"http://yakushi.umin.jp/publication/pdf/zasshi/Vol16-2_all.pdf"によれば取り付けた筒は紙製だったそうで、李全の活躍した山東半島には竹が自生していなかったのが理由だという(p62)。残念ながらずっと後の時代の史料なので信頼度には疑問符がつくが、徳安以後も火槍が使われていた可能性を示す史料ではある。
 他にこれもまたAndradeは触れていないが、行軍須知("http://www.library.yonezawa.yamagata.jp/dg/AA040_view.html" 20冊目)なる書物に載っている火筒という兵器もある(46/64)。残念ながらどんな武器であるかまでは分からないのだが、Needhamによると1230年頃に登場したこの兵器は「大き目の直径を持つ竹」を使っているそうで、これも火槍の一種だそうだ。おそらく徳安以降も火槍の使用が途絶えたわけではないことは間違いないだろう。
 より明白に火槍が使われていたことを示すのは、震天雷と同じく1232年のモンゴル軍による開封攻撃時に関する史料だ。Andradeはこの武器について「1世紀前に陳規が使ったものよりずっと効果的だったように思われる」(p46-47)と述べている。その武器の名は金史"https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%87%91%E5%8F%B2/%E5%8D%B7113"赤盞合喜伝によれば「飛火槍」であり、「前方十余歩を焼き、人は敢えて近づかない」と書かれている。
 同じ金史"https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%87%91%E5%8F%B2/%E5%8D%B7116"の蒲察官奴伝によれば、この火槍は紙を重ねて筒状にしたもので、長さは二尺ほど。「柳炭、鉄滓、磁未、硫黄、砒霜之属」を詰め込んでいるというが、砒霜之属については「硝石だと推定される」("http://yakushi.umin.jp/publication/pdf/zasshi/Vol16-2_all.pdf" p66)そうで、つまり火薬と一緒に鉄などの破片が詰め込まれていたことになる。即ちこの時点で火薬だけでなく後の散弾に相当するものも一緒に撃ち出されていたと考えられる。
 明白に散弾を撃ち出したと読み取れるのは、宋史"https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%8F%B2/%E5%8D%B7197"に書かれた突火槍の方だろう。有名なこの兵器は1259年の記録に出ており、竹製の筒の中に「子窠」なるものが入っている。火をつけると炎が絶えた後にこの子窠が発出される仕組みとなっているようで、この記述からこれこそが最初の銃砲だと主張する向きもいるようだ(Andrade, p52)。
 だが飛火槍や突火槍の「弾丸」は、砲身の内径に比べてはるかに小さい。真の銃砲は内径に近い直径を持つ弾丸を撃ち出すものだと考えるなら、これらの兵器はあくまで銃砲に至る前段階の、Needhamの言うEruptor("https://books.google.co.jp/books?id=hNcZJ35dIyUC" p263)の一種と考えるべきだろう。後はこのEruptorがいつ本物の火器になったかを調べればいい。
 その前に火槍に関するその後の記録も確認しておこう。何よりも目立つ使用例は1268-73年の焚城・裏陽攻防戦だ。宋史"https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%8F%B2/%E5%8D%B7450"には囲まれたこれらの城に武器を届けようとした者たちが、火槍などを運んでいたことが記されている。また宋滅亡の直前に戦った人物が、既に火薬が尽きたと見られる火槍で戦っている記録もある"https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B2/%E5%8D%B7162"。中国で戦乱が続いている間、この兵器が絶えず使われていた様子が分かる。

 閑話休題。真の銃砲の先祖たるEruptorについて調べるうえで障害となるのは「モンゴル人が後世に僅かな歴史資料しか残さなかった」(Andrade, p45)問題。これを乗り越えるためにNeedhamが使った手段は、明代に書かれた火龍經(火龍神器陣法"https://archive.org/details/02092185.cn")からその存在を探すという方法だ。この書物"https://en.wikipedia.org/wiki/Huolongjing"は15世紀に出版されたものではあるが、一方でかなり古いと思われる火薬兵器も紹介されている。Needhamは元時代の書物について記録した「補遼金元藝文志」"http://ctext.org/library.pl?if=en&file=94902"の中に「火龍神器図法」(92/169)なる題名の本があることを発見。火龍經の中にはこの本から引用したものも多く含まれており、古くは13世紀末頃の兵器も載っているのではないかと想定している。
 Andradeも同様にこの火龍神器陣法"http://ctext.org/wiki.pl?f=gb&res=98552"に掲載されているEruptorをいくつか紹介している(p52)。名称は様々だが、散弾のように口径より小さなものを撃ち出している様子を描いたものが目立つ。これらが元代(1271年成立)から存在していたことを立証するうえで、火龍經だけではおそらく不十分だろう。だがこれまで述べたように元代より前に飛火槍や突火槍といったEruptorが存在していたことを踏まえるなら、あり得なくはない。
 そして何より重要なのは西夏銅火銃(Andrade, p53-54)の存在だろう。以前紹介した"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55798435.html"時はこれを真の銃砲と書いてしまったが、実は口径(12センチ)に比べて弾丸の直径(9センチ)が小さいため、Eruptorとも考えられる。この銃はAndradeによれば1214年から1227年の間に製造された可能性があるそうで、それが事実なら飛火槍などに比べても古い。なお興味深いことにこの兵器は長さ1メートル、重さ108キロと、初期の銃砲と比べてかなり大きなサイズを誇っている。

 そしてこれらのEruptorから真の銃砲への移行が起きた。年号が刻印された最古の銃は、Andradeの言う「ザナドゥ・ガン」(p53)だ。長さ34.7センチ、重さ6210グラムのこの銃には「元大徳2年」と記されている"http://www.epochtimes.com/b5/4/8/5/n618498.htm"。21世紀になって発見されたこの銃はNeedhamの本には載っていないものの、確定した年号のある最古の銃だと見られている。それ以外に製造された刻印はないが、1288年頃のものと思われる銃もある(Needham, p293-294)。
 さらに遡る銃が存在するという指摘もある。刻印に「直元」という元号が記されている長さ34.6センチ、重さ1550グラムの銃がそれだ"http://tieba.baidu.com/p/147482619"。専門家の中にはこの直元という年号を「至元」と読み、1271年製の銃だと解釈する向きもあるという。Andradeは「日付には慎重になるべきだが、あり得ないタイミングではない」(p330)と述べている。このあたりの話は以前にも紹介している"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55899547.html"。
 初の銃砲が生まれた年を正確に探り出すのは難しいだろう。だがいずれにせよ、13世紀末頃には金属製の銃身を持つ「真の銃砲」が存在していたことは、考古学的証拠からおそらく間違いない。火薬兵器の初登場から長くても約300年、管形兵器の誕生からだと170年ほどでここまでたどり着いたことになる。現代の感覚からすればのんびりした発展だったかもしれないが、燃焼(酸化)の仕組みすら知られていなかった時代背景を考えるならかなりのスピードだ。
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