中国火薬兵器の発展・上

 前"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55903407.html"にAndradeがNeedhamより火薬兵器の発展を後ずれして解釈していることを指摘した。ではどの程度後ずれしているのか。まず火槍だが、これは話が簡単。陳規の守城録"http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=161500"に出てくる「以火炮藥造下長竹竿火鎗二十餘條」の部分がそれだろう。西暦で言えば1132年、つまり12世紀前半だ。Andradeは陳規が火薬ではなく「火炮薬」と書いてある点に注目し、従来の火薬より硝石比率の高いものを使ったのではないかと推測している(p38-39)。11世紀バージョンの火薬では筒に入れてもうまく燃焼しなかった以上、効果的な武器にするためには火薬の質そのものを変える試みがあったという想定だ。ちなみにこの徳安で使われた火槍については正史である宋史にも「規以六十人持火槍自西門出」"https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%8F%B2/%E5%8D%B7377"と書かれている。
 次にAndradeが火槍の使用例として持ち出しているのは魏勝の作った如意戦車。このフス派荷車戦車の先祖みたいな兵器は1163年に数百台用意され、それぞれに火槍が搭載してあった。宋宮廷はこの兵器に感心して他の部隊も採用するよう命じたという(Andrade, p39)。だが宋史("https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%8F%B2/%E5%8D%B7368"や"http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=644719")に載っている文章を見ると、搭載されていた武器は「大槍」や「弩」などであり、火槍という文字は見えない。
 それに対し、同時に魏勝が開発した「炮車」の方には「火石炮」なるものが搭載されているとある。こちら"http://yakushi.umin.jp/publication/pdf/zasshi/Vol16-2_all.pdf"によれば18~19世紀の人物はこの火石炮こそ「此近代用火具之始」"http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=924798"と解釈しているらしいが論拠は不明(p61)。もしかしたらAndradeはこの火石炮を火槍の一種と見なしたのかもしれないが、普通に投石機の一種と考えても問題ないように思える。

 次に爆発物の方はどうか。まずAndradeは1126年の靖康の変に注目する。彼は靖康傳信録"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533362"の「夜発霹靂砲以撃賊軍皆驚呼」(23/54)という部分を紹介し、この「恐るべき新しい武器」(p34)の効果を強調している。さらには11世紀の火薬は爆発能力を持たなかったが「1100年代半ばには持つようになった」(p326)とも書いている。この戦いの時にいったんは退却した金は、すぐ再び攻め寄せて最終的に北宋を滅ぼす(續資治通鑑長編拾補"http://ctext.org/library.pl?if=gb&res=1882"、巻58参照)のだが、その際には金軍も多くの火薬兵器を使ったそうだ。
 続いて1161年に采石での水上戦闘で霹靂砲が使われた記録がある(p40)。誠齋集巻44"https://archive.org/details/06074031.cn"にあるのがそれだが、そこには霹靂砲について「蓋以紙為之」と書き、さらに中に石灰と硫黄が入っているとも述べている。誠齋集の著者はまた聞きでこれを記したそうで、もしかしたら火薬を紙製の容器で包んだことを表現しているのかもしれない。紙とはいえ密閉した容器を使えば、確かに爆発物としての機能をよりしっかりと果たした可能性はある。
 そしてAndradeが霹靂砲について「本当の火薬爆弾」(p41)になったと解釈しているのが、1206-07年に行われた襄陽での攻城戦だ。襄陽守城録"https://zh.wikisource.org/wiki/%E8%A5%84%E9%99%BD%E5%AE%88%E5%9F%8E%E9%8C%84"には「隨即放霹靂火炮箭入虜営中、射中死傷不知数目」との文言があり、霹靂砲が具体的にかなりの殺傷力を持つようになったことを窺わせる。12世紀半ばから密閉した容器の中でも火薬が使えるようになり、次の世紀が来る頃には完全に爆弾と呼べるものにまで進歩したのであろう。
 しかし最初に密閉した容器に火薬を詰め込んだのは兵器ではなかった可能性がある。Andrade曰く「1100年代の3番目の10年間」(p40)、つまり1120年代に火薬を使った爆竹が使われていたというのだ。おそらく「爆竹の起源と発展」"http://yakushi.umin.jp/publication/pdf/zasshi/Vol14-2_all.pdf"に紹介されている東京夢華録巻7"https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A2%E8%8F%AF%E9%8C%84/%E5%8D%B7%E4%B8%83"に出てくる宝津楼の話が論拠だろう。
 そこには「忽作一聲如霹靂、謂之『爆仗』(中略)煙火大起」と書かれている。爆仗とは爆竹のことで、爆竹が音を立てた後に「煙火が大いに起こる」とあるのだから、これが火薬を使った爆竹である可能性は高い。この文中では「爆仗」が6回も登場しており、相当派手に爆竹が鳴らされていたことが分かる。東京夢華録が書かれたのは1147年以降だが、その内容は北宋が健在だった時期の開封の思い出話なので、北宋がまだ生き残っていた1120年代以前から爆竹があったと考えられる。

 竹や(おそらくは)紙で密閉した爆弾に続いて、より固いものを容器に使った爆弾も生まれる。その嚆矢としてAndradeが指摘するのは、実は歴史資料ではなく一種の民話、あるいは「怪奇小説」と呼ばれるものであった。続夷堅志に掲載されている「樹を伐る狐」という逸話がそれで、岡本綺堂がこの話を翻訳している"http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2239_11902.html"。ただし彼の翻訳を読んでもどこが新しいのかは不明だろう。そこには「爆発薬を竹に巻き、別に火を入れた罐を用意し」た金国の猟師が「爆薬に火を移して」狐に投げつけたとしか書いていない。
 一方、原文"http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=527251"には猟師の鉄李という男が「腰懸火缶、取巻爆潜焼之、擲樹下」と書いている。Andradeによれば李は「小さな口を持つ強力な陶器製の容器に火薬を詰め、導火線を入れた」(p41)ことになる。「爆竹の起源と発展」はこの原文を「李は腰に火缶をかけ、巻爆をとりてひそかにこれを焼き樹下になげる」と読み下し、巻爆は「導火線であろう」と推測している(p85)。この出来事は1189年のことらしい。もしこの民話が史実に根拠を持っているのならば、12世紀後半には頑丈な容器を使ったより破壊力のある爆弾が生まれつつあったことになる。
 そして13世紀前半、1221年に金が新型兵器を投入する。鉄火砲だ。「鉄火砲は家々をバラバラにし、塔を叩き壊し、守備隊を城壁から吹き飛ばした」(p42)。宋側の関係者が記した辛巳泣蘄録"https://zh.wikisource.org/wiki/%E8%BE%9B%E5%B7%B3%E6%B3%A3%E8%98%84%E9%8C%84"には鐵火炮による損害として「所傷頭目」だの「傷人最多」といった記述がある。瓢のような姿で鉄を使って作られ、厚さが二寸あったこの火薬兵器は、最終的に金側に勝利をもたらした。
 武器の進化はとどまらない。鉄火砲はやがて宋側も所有するようになった("http://yakushi.umin.jp/publication/pdf/zasshi/Vol16-2_all.pdf" p62-63)し、金はさらに新しい武器を投入するようになった。それが震天雷だ。最初の記録は金史"https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%87%91%E5%8F%B2/%E5%8D%B7111"の完顔訛可伝に登場し、「1231年に金の将軍がモンゴルの戦船を破壊する際に使った」(p46)。次の記録は同"https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%87%91%E5%8F%B2/%E5%8D%B7113"赤盞合喜伝で、こちらは開封防衛戦で使われたことが記されている。鉄製の缶に火薬を詰めて、それに火をつけると「所焼囲半畝之上」、つまり300平方メートル以上の広範囲を焼いたという。金史だけでない。帰潜志"https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%AD%B8%E6%BD%9B%E5%BF%97"という記録にも1231年に金軍が震天雷を使ってモンゴル相手に戦ったことが書かれている。
 この震天雷については後に明時代に書かれた余冬序記"https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%A4%98%E5%86%AC%E5%BA%8F%E9%8C%84"にも言及がある。古い時代の震天雷が残されているのを見てそれについて言及しているものだが、それを読むと容器は鉄だけでなく「又有磁焼者」と磁器製のものがあったことも分かる。鉄の不足に応じて作られたようで、後に元寇で使われたてつはうも、発見された遺物"http://www.city-matsuura.jp/www/contents/1379132759826/index.html"は「土製品」であり鉄製ではなかった。戦争では量が必要になるため、多少威力が落ちても数をそろえる必要があったのかもしれない。

 長くなったので以下次回。
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