続いて1161年に采石での水上戦闘で霹靂砲が使われた記録がある(p40)。誠齋集巻44"
https://archive.org/details/06074031.cn"にあるのがそれだが、そこには霹靂砲について「蓋以紙為之」と書き、さらに中に石灰と硫黄が入っているとも述べている。誠齋集の著者はまた聞きでこれを記したそうで、もしかしたら火薬を紙製の容器で包んだことを表現しているのかもしれない。紙とはいえ密閉した容器を使えば、確かに爆発物としての機能をよりしっかりと果たした可能性はある。
そこには「忽作一聲如霹靂、謂之『爆仗』(中略)煙火大起」と書かれている。爆仗とは爆竹のことで、爆竹が音を立てた後に「煙火が大いに起こる」とあるのだから、これが火薬を使った爆竹である可能性は高い。この文中では「爆仗」が6回も登場しており、相当派手に爆竹が鳴らされていたことが分かる。東京夢華録が書かれたのは1147年以降だが、その内容は北宋が健在だった時期の開封の思い出話なので、北宋がまだ生き残っていた1120年代以前から爆竹があったと考えられる。
竹や(おそらくは)紙で密閉した爆弾に続いて、より固いものを容器に使った爆弾も生まれる。その嚆矢としてAndradeが指摘するのは、実は歴史資料ではなく一種の民話、あるいは「怪奇小説」と呼ばれるものであった。続夷堅志に掲載されている「樹を伐る狐」という逸話がそれで、岡本綺堂がこの話を翻訳している"
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2239_11902.html"。ただし彼の翻訳を読んでもどこが新しいのかは不明だろう。そこには「爆発薬を竹に巻き、別に火を入れた罐を用意し」た金国の猟師が「爆薬に火を移して」狐に投げつけたとしか書いていない。
一方、原文"
http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=527251"には猟師の鉄李という男が「腰懸火缶、取巻爆潜焼之、擲樹下」と書いている。Andradeによれば李は「小さな口を持つ強力な陶器製の容器に火薬を詰め、導火線を入れた」(p41)ことになる。「爆竹の起源と発展」はこの原文を「李は腰に火缶をかけ、巻爆をとりてひそかにこれを焼き樹下になげる」と読み下し、巻爆は「導火線であろう」と推測している(p85)。この出来事は1189年のことらしい。もしこの民話が史実に根拠を持っているのならば、12世紀後半には頑丈な容器を使ったより破壊力のある爆弾が生まれつつあったことになる。
長くなったので以下次回。
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