インドの火器

 以前、イスラムの火器について書いたことがあった("http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55795805.html"と"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55798435.html")。イスラム圏における初期の火器利用について、実は論拠の怪しいものがあることについて調べてみたものだ。イスラム圏での火器利用は欧州と比べても決して早いとは言えない、というのがその結論だった。
 それでもイスラム圏での火薬やそれを使った兵器の開発に関する主張の中に、中国より古いというものは見当たらなかった。一方、世の中にはもっと大胆に「火薬も火器も中国より古くからある」と主張している地域がある。インドだ。
 代表例はこちら"http://www.hinduwisdom.info/War_in_Ancient_India.htm"のサイト。そこでは中国起源説の論拠が「自ら中国愛好家と認めているNeedhamの研究に拠っている」と書くことでその主張が偏見に基づいていると示唆し、本当はインドこそが火薬と火器発祥の地であると主張している。こちら"https://books.google.co.jp/books?id=7n6Cg9znFrUC"の論文集にもインドの方が中国より古いとする論文が載っている。
 だが同じ論文集に掲載されているIqtidar Alam Khanによれば、インドに初めて火薬兵器が伝わったのは中国の武経総要より2世紀以上も後だったという"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55871177.html"。インドが中国より古いという主張を否定しているのはPartington"https://books.google.co.jp/books?id=fNZBSqd2cToC"も同じ。一体どちらが正しいのだろうか。

 それを調べる上では大元まで遡るのが手っ取り早い。幸い、この「インド火薬起源説」を唱えたのが誰であるかは割と簡単に分かる。Gustav Oppertだ。彼が1880年に出版したOn the Weapons, Army Organisation, and Political Maxims of the Ancient Hindus"https://books.google.co.jp/books?id=Q8MIAAAAQAAJ"という長ったらしい名前の本こそがその論拠であり、最近でもこちらのサイト"http://www.sanskritimagazine.com/india/india-the-home-of-gunpowder-and-firearms/"に一部が引用されている。
 Oppertがその証拠として示したのはSukranitisaraなる文章だ。サンスクリット語で書かれた詩文らしいのだが、こちら"http://www.jstor.org/stable/41853941"によれば成立時期は8世紀。Needhamらが唱えている「9世紀に中国で火薬が生まれた」とする説よりも時期は古い。この文章に火薬が書かれているのが事実なら、確かに中国より古いことになる。
 だが実際にこのSukranitisaraに書かれている火器に関する記述を読むと、そのおかしさはすぐに分かる。Oppertの翻訳によれば火器には大きいものと小さいものの2種類があったそうだが、小さい方の銃尾には「石と火薬を使ってぶつけて発火させる機構」(p106)がついているというのだ。欧州では17世紀になってようやく発明されたはずのフリントロックが、インドではいきなり最初から装備されていたことになる。
 大きい方になるとさらに異様だ。「砲尾をくさびで動かして」大砲の角度を変え狙いをつけるという機構が存在するうえ「車両に乗せて牽引される」(p106)仕組みになっている。欧州で大砲の角度を調整するための砲耳がつくられるようになったのも、また車輪付きの台に乗せて運ばれるようになったのも、いずれも16世紀の出来事だ(Artillery Through the Ages"https://books.google.co.jp/books?id=yYupSOK0BgIC" p5)。
 中国で記録に残っている最古の火薬兵器は、そもそも現在の銃砲とは似ても似つかないものだった。また初めて登場した銃砲には引き金すらなかったし、もちろんフリントロックなどもなかった。大きな大砲が生まれるまでには時間を要したし、角度を変えやすくするため砲耳が発明されるにはさらに時がたつ必要があった。なのに中国の火薬誕生より古いとされるSukranitisaraには、17世紀の武器がいきなり登場している。
 普通、こういう文章を読めば後世に挿入されたものと疑うのが当然だ。そして事実、100年以上も前にそう疑った人物がいる。Henry Himeの書いたGunpowder and Ammunition"https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=wu.89089975122"がそれで、その中には彼以外による「当然ながら挿入を疑う」「インドに火薬が導入された後に加えられたもの」「明らかに偽造」(p110)といった指摘が紹介され、「インドにおける早期の火薬はフィクション」(p113)と結論づけられている。
 Himeは他者の意見だけに基づいてそう言ったわけではない。Sukranitisaraに載っている硝石、硫黄、木炭の比率も彼がその古さを疑問視した論拠だ。その比率は5:1:1、あるいは6:1:1や4:1:1もあると書かれている(Oppert, p106-107)。しかし欧州で4:1:1という比率が達成されたのはスウェーデンで16世紀半ば、英国では17世紀半ばに過ぎない(Hime, p197-198)。これだけ硝石比率の高い火薬を初期の弱い銃砲で使えば砲身が破裂してしまうだろうと、Himeは皮肉を述べている(p109)。中には火器どころかSukranitisaraの記述全体がマラータのシヴァージ王"https://en.wikipedia.org/wiki/Shivaji"以降、つまり17~18世紀に成立したと見る人もいる("https://books.google.co.jp/books?id=vRE3n1VwDTIC" p187)。
 そもそもインドに古くから火薬があるという勘違いの始まりはOppertより前、18世紀に英語に翻訳されたマヌ法典の記述にあるらしい。そこでは「大砲と銃砲、あるいはあらゆる種類の火器」という記述が登場している。だがこの翻訳は実はペルシャ語からの重訳であり、誤訳だった。後に専門家がサンスクリットの原典を見つけて翻訳し直した結果は「火で熱した刃物、あるいは可燃物を先端に付けた道具」(Hime, p106)となっており、そこには火器も火薬もない。古いインドの火薬・火器というのは幻に過ぎないわけだ。
 Himeが容赦なく叩き潰したせいか、その後の研究者はこの問題については彼ほど深く言及していない。PartingtonはOppertの説を紹介し、Himeなどの指摘も示したうえで「おそらく誰もOppertの結論を受け入れないだろう」(p213)としている。Needhamはもっと冷淡で、「インドの火薬史については、Oppertは正しくHopkins("https://books.google.co.jp/books?id=c3SCAAAAIAAJ"などでOppertの主張を批判した研究者)に撃破された」(p61-62)の一言で終わらせている。

 だが100年以上前に「撃破」されたはずの議論を、いまだに持ち出す人間が後を絶たない。最近でも今年出版されたばかりの本"https://books.google.co.jp/books?id=I5joCwAAQBAJ"が、やはりSukranitiを論拠に火薬はインドで発明されたと主張している。著者"https://notionpress.com/author/henry_pratap_phillips"はインド生まれであり、つまるところエスノセントリズムで目がくらんでいるのだろう。
 そもそも本当にそんなに古くから火薬兵器があったなら、なぜインド人はムスリムの侵攻や欧州列強による植民地化に対して火薬兵器を使って抵抗しようとしなかったのか。欧州人がインドに到達した15世紀末の時点で、インドでの火薬兵器の使用が限定的であったことは各所で指摘されている。古い時代のインドに火薬があったという主張は、「後にそれが捨てられ忘れ去られたことを認めなければならない」(Hime, p108)という最大の問題を抱えているのだ。
 平和になった中国で火器の発展が止まったのは事実だが、彼らがそれを捨てて忘れ去ったという話はない。江戸時代の日本も同様で、おかしな主張をしているのはペリンの空想じみた本くらいである。手に入れた効果的な武器を自主的に捨てることは、これまでの人間の歴史でほとんどあり得なかった。もしそれがよくある事例なら、現代社会が核兵器廃絶にここまで苦労することもなかっただろう。
 インド人は火薬と火器という効果的な兵器を生み出しながらそれを忘れ去ったのではない。単にモンゴルと接する以前には火薬も火器も知らなかっただけ。そう考える方が辻褄が合う。
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