決戦兵器 鉄砲

 長篠の戦いについて、改めて信長公記と甫庵信長記を見比べてみた。以下に感想を。

 まず「三段撃ち」については以前にも書いた通り"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55771675.html"。世間一般にイメージされる三段撃ちが「撃って後ろに下がる」カウンターマーチ方式のものである以上、長篠の戦いにおいて三段撃ちはなかったと結論づけるほかないだろう。調べた限り昭和以降の文献にしか見つからない戦術が長篠の戦いで使われていたと主張するのは無理がありすぎる。
 次に甫庵信長記の記述だが、まずそこで「千挺宛放懸一段づつ立替々々打すべし」という記述が出てくるのが、実は合戦前であることに注意したい("http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544602" 18/27)。この記述はあくまで戦いの前に信長が部下に「下知し」た文言に過ぎず、実際の戦闘において千挺ずつ放ち一段ずつ立ち替わりながら撃ったと書かれているわけではないのだ。
 では実際の戦闘ではどうだったのか。まず武田方の最初の攻撃だが「家康卿より出置れたる三百人の鉄砲足軽渡し合せ爰を先途と込替々々放懸」ているほか、佐久間に対する攻撃も「三千挺の鉄砲に射すくめられ」て退却に追い込まれている。続いて2度目の攻撃も「家康卿の鉄砲に被射立」、さらに織田部隊の鉄砲を指揮する「五人下知して三千挺を入替打せ」て退却に追い込んだ。その後の一連の攻撃も鉄砲で撃退され、最後に馬場信春の軍勢が攻撃してきた時には「敵間近寄来と等く二千余挺[ママ]の鉄砲を一度に放立」(19/27)てその多くを撃ち倒したと書かれている。
 見ての通り、実戦の場ではどこにも「千挺宛放懸一段づつ立替」ながら撃ったという記述はない。「三千挺を入替打せ」たという書き方はなされているので交代射撃が実施されたと読むことはできるが、それが千挺ずつ行われたものかどうかは不明。逆に馬場に対しては交代射撃ではなく「今度は惣鉄砲を一度に放懸」る戦術、つまり全ての鉄砲による一斉射撃を採用したと述べている。本当に合戦中に「千挺宛」の射撃が行われたかどうかは、実ははっきりしないのだ。事前に命令が出されたことと、それが実行されたこととの間には、大きな違いがある。
 もう一つ、「千挺宛放懸一段づつ立替」ながら撃つ際に欠かせない具体的手順についての言及が見られない。マウリッツがカウンターマーチ方式を導入する際には1列目の兵が撃って後方へ下がる様子が明確に描かれたし、ビコッカの戦いでも具体的な射撃手順が説明されていた。しかし甫庵信長記にはそうした記述がない。散兵戦における輪番射撃のように小規模な射撃戦ならいちいち細かい手順を記さなくてもできるかもしれないが、1000人単位で撃つ場合にそうしたマニュアルがないのは考えにくい。
 さらに小瀬甫庵自身の経歴"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%80%AC%E7%94%AB%E5%BA%B5"も、彼の記述に対する信用性を低下させる。1564年生まれの彼が1575年にあった長篠の戦い時点でその詳細について知り得る立場にあったとは思われず、つまり彼の著作はどうひいき目に見ても二次史料になる。他に史料がないのならともかく、より信頼性の高い史料があるならそちらを採用する方が妥当だ。
 甫庵信長記には「千挺宛」以外にも、交代射撃を窺わせる「三千挺を入替打せ」との記述や、家康部隊による「鳥打ち」「取次」とも解釈できる「込替々々放懸」という記述があるなど、興味深い文章はいくつも見られる。しかし、いかんせん大規模な交代射撃を裏付けるには具体性に乏しい。どうにも机上の空論に見えてしまうのだ。マウリッツがカウンターマーチ戦術実行のため多大な訓練を課したのに対し、そうした準備をした様子もない織田軍勢がいきなり3000人をひとまとめにした交代射撃を行うのは、やはり現実味に乏しい。

 続いて信長公記(現代語訳はこちら"http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shincho11.html")。そこでは鉄砲に対する事前の命令として「御下知次第可働の旨兼而より被仰含鉄砲千挺計」を5人の指揮官の下に置いたという記述が出てくる("http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781193" 6/34)ものの、これをもって交代射撃を命じたと解釈するのは無理がある。
 実際に戦闘が始まると「鉄砲以て散々に被打立」「かかればのき退ば引付御下知の如く鉄砲にて過半人数うたれ候」「身がくしとして鉄砲にて待請うたせられ候」「鉄砲計を相加」といった具合にひたすら銃で迎え撃ったことは記録されているが、交代射撃を窺わせる記述は見当たらない。甫庵信長記に書かれている「猶強く馬を入来らばちっと引退敵引ば引付て打せよ」(18/27)と平仄の合う記述は見られるものの、「入替」「立替」といった文章は出てこないのだ。
 信長公記を書いた太田牛一"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E7%89%9B%E4%B8%80"は1527年生まれなので長篠の戦いの時には40代後半。しかもその時期には長篠にも参加していた(信長公記、5/34)丹羽長秀の与力だったそうなので、もしかしたら自身でこの戦いに加わっていた可能性すらある。少なくとも小瀬甫庵よりはリアルタイムに長篠の戦いについての詳細な情報を得られる立場にあったのは間違いないだろう。つまり普通に考えれば甫庵信長記より信頼性が高いと判断しても不思議はない。

 以上を踏まえるなら、撃って後ろに下がる「三段撃ち」がなかったのは当然として、小瀬甫庵の唱える「千挺宛」の交代射撃もまた証拠不足な主張のように思える。むしろ長篠の戦いで注目すべきは、信長公記も認めているようにひたすら「鉄砲」のみで戦い続けるよう、織田軍において周知徹底されていたところにあるのではないだろうか。
 織田軍はこの戦いで「かかればのき、退ば引付」たうえで「御下知の如く鉄砲にて」攻撃を加えている。相手が襲い掛かってくれば退き、相手が後退すれば引き付けるようにしたとあるのだから、こちらからの前進は手控えたのだろう。そして接近してきた敵に対しては鉄砲でひたすら撃つ。戦国時代の一般的な戦い方であった「鉄砲競合から距離を詰めての打物戦」"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54921024.html"という流れを否定し、「鉄砲」のみで戦い続けるよう「下知」がなされていた、と読めるのだ。実際「如此御敵入替候へとも御人数一首も無御出」という一文もあり、白兵戦のため相手に接近することがなかったと考えられる。
 もしこの読み方が正しいのなら、つまり織田信長が「打物戦」への移行を事前に敢えて禁止していたのだとしたら、交代射撃の実行よりもそちらの方がよほど重要ではないだろうか。つまり彼はスイスのハルバード兵のように「白兵戦が主、鉄砲は従」としていた戦国時代の常識を覆し、鉄砲を決戦兵器として使用するゴンサロ・デ=コルドバと同じ発想に立ち至ったことになるのだ。まさに革命児の面目躍如ではないか。

 もちろんこの読み方が正しいかどうかはもっと調べる必要がある。そもそも本当に当時の戦闘では「鉄砲競合から打物戦」への移行が中心だったのか、鉄砲は脇役で白兵戦こそが主役と思われていたのか、戦国時代の戦い方はスイスのハルバード兵的だったと見ていいのか、そこのところも問題だ。そして何より、長篠以前に「基本的に飛び道具だけで戦い、白兵戦への移行は控えるように」という命令を出した戦いがないことが重要。もしあったなら織田信長は単に前例に従っただけとなる。
 ただしこれまで戦国時代の戦い方について調べてきた限り、当時の人々が射撃戦から白兵戦への移行をある程度、当然の方法と認識していた可能性は高い"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54487441.html"。さすがに朝鮮役やそれ以降になると鉄砲の比率を高める動きが広がっていたようだが、長篠の戦いの頃だとまだそうした発想は珍しかった可能性はある。最近は織田信長の革新性よりも彼が普通の戦国大名であった点を強調する指摘が多いようだが、長篠の戦いで鉄砲を「決戦兵器」にしようとしたのが事実なら、やはりそこには革新性があったように思える。
 とはいえ私は日本の戦国時代について詳しいわけではない。だから以上の考えが間違っている可能性は十分ある。あくまで一つの考え方として書いておく。
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