Arthur Chuquetの"The Wars of the Revolution"英訳本の最新刊が出た。第8巻の"Wissembourg"と第9巻の"Hoche and the Battle for Alsace"だ。1793年から94年初頭にかけてのアルザスにおける戦役を描いたという、実にマニアックな2冊。それでいて中身は相変わらず面白い。どうやらChuquetはこのシリーズを第11巻までしか書いていないようで、あと2冊で終わってしまうのが実に残念だ。
このあたりから後の時代に活躍する指揮官たちが表舞台に出てくる。ライン方面ではグーヴィオン=サン=シールやドゼーがどんどん目立ってくるし、オッシュやピシュグリュも当然ながら主役的な立場で顔を出す。ナポレオン関連では単にやられ役でしかないヴルムゼルやブラウンシュヴァイクも、敵方で色々と面白い動きを見せる。革命真っ盛りにおけるサン=ジュストやル=バの活動も描かれている。
紹介したいことはたくさんあるが、今回のところは一つに絞ろう。93年を通じて連合軍相手に苦戦を続けていたフランス軍が、なぜ年末になって逆襲に転じることができたのか。その理由をChuquetの本から推測してみる。
Chuquetの本を読むと、重要な位置を与えられているのがサン=ジュストとル=バだ。彼らはそれ以前にライン軍やモーゼル軍に派遣されていた議員たちとは異なり、軍の規律強化に力を注いだというのがChuquetの評価。派遣議員たちがジャコバンクラブでの演説にばかりかまけ、クラブに出入りする兵士たちが上官に逆らう傾向を助長していたのに対し、サン=ジュストらはむしろ兵をクラブから軍に戻し任務を果たすよう仕向けたというのだ。
他の派遣議員たちは地域のデマゴーグに囲まれて混乱を振りまいていた。サン=ジュストとル=バはそうした連中を遠ざけ、かなり峻烈ではあるがえこひいきのない政策を実行した。結果、他の派遣議員らも彼らを真似するようになり、それによって乱れていた軍隊内の規律が復活。フランス軍の反撃へとつながった、ように読める。
ただ、それはあくまでフランス軍が立ち直った理由の一つに過ぎないと考えた方がいいだろう。いくらサン=ジュストとル=バが優秀だからと言って、たった二人で、しかもあの短期間で軍の規律を完全に復活させることなどできはしない。Chuquetは「ドーリオルの縦隊がブクスウィラーに入城した時、彼の兵士たちは略奪のため散らばっていった。このためいまだ郊外に残っていたオーストリア軍の大砲4門に逃げ出す余裕を与えてしまった」("Hoche and the Battle for Alsace" p82)と記して、フランス軍が反撃に転じた段階でも規律がまだ乱れていたことを指摘している。
兵士たちの士気が高まったのが理由、という訳でもない。「旅団がオーストリア軍の陣地に向かって前進した時、彼らはすぐに二つのはっきりとしたグループに分かれた。勇敢な者たちは大胆さを競うように『互いに誰が最も遠くまで前進できるかに挑戦した』。そして臆病者たちは後方にとどまり、見せびらかすためだけに遠方からたった2回か3回だけ銃を撃つのだった」("Hoche and the Battle for Alsace" p82)。フランス軍の戦い方も決して向上せず、「彼ら[オーストリア軍]はとてもよく戦ったので、これら一連の戦い全てでオーストリア軍の蒙った損害はフランス軍に与えたものの3分の1しかなかった」("Hoche and the Battle for Alsace" p81)。
規律も士気も戦い方も変わっていないのなら、なぜフランス軍は逆襲できたのか。答えは簡単。数だ。Chuquetによると「オッシュ自身、彼の下に配属された兵の量が勝利を決めたと認めている」("Hoche and the Battle for Alsace" p146)。それまで連合軍相手に苦戦していたフランス軍だったが、1793年11月以降には増援を受け取ったおかげで兵力数がかなり増えていたのである。
北方軍の担当する戦線はワッチニーの戦い以降膠着状態になっていた。そこで公安委員会は、この方面から兵力を引き抜いてまだ戦闘が続いているライン方面へ送ることを決断したのである。当初は2万人を送る予定だったが、北方軍指揮官であるジュールダンの反対によりこの計画は修正。結局アルデンヌ軍から1万5000人がモーゼル軍に送られた。この数にモノを言わせてフランス軍は連合軍を攻撃したのだ。
モーゼル軍とライン軍は、8月の段階ではむしろ兵力を他地域へ送り出すことを強いられていた。モーゼル軍から3万人を北方軍に派出することが決まり(実際にたどり着いたのは2万人)、それによりモーゼル軍は兵力1万人まで落ち込んだという("Wissembourg" p40)。それに対し、11月に増援を受け取ったオッシュがカイザースラウテルンへ前進を始めた時のモーゼル軍の戦力は実に4万人。なるほど、オッシュが勝因を数に求めたのも当然である。
ピシュグリュのライン軍が攻撃を始めたところから連合軍の戦線が破断界を迎えるまでの描写は、実に鬼気迫るものがある。朝鮮戦争で中国義勇軍が攻めてくるのを見た国連軍兵士の気持ちもかくやと思わせるほどだ。まさしく数の暴力。いくら撃退しても撃退しても翌朝になるとまた攻めてくるフランス軍を見て、オーストリア軍が戦力的にも精神的にもすり減らされていく様子がよく分かる。知恵も工夫もなく、ひたすら消耗戦を強いるフランス軍の前に、連合軍は力尽きてしまったのだ。
Chuquetの本には連合軍が増援をどのように送り込んでいたかが書かれていないので詳細は分からないのだが、少なくともフランス軍ほど機動的に兵力を動かしていた様子は窺えない。ライン方面に展開していたのは最初から最後までブラウンシュヴァイク率いるプロイセン軍と、ヴルムゼル率いるオーストリア軍(含むコンデのエミグレ)。フランス軍の動きに合わせて連合軍ももう少し兵力を増強すれば、また流れは違っていたのかもしれない。だが、連合軍はフランス軍ほど融通無碍に動くことはなかった。それどころか、この地域の連合軍はむしろお互いに足を引っ張り合っていたと言ってもいい。その件については次の機会に書くことにしよう。
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