ナポレオン漫画の最新号。ようやくデゴの戦いが終了した。今回は久しぶりにヴィクトールが登場したのが目新しい点か。後はランヌとマセナがいつも通りの行動をしているくらい。"ブカソビッチ"も顔出ししたが、彼については肖像画を見たことがないので漫画の描写がどのくらい妥当なのかは不明。まあ別に似ていなくても何の問題もないのだが、それにしてもこの時期のオーストリア軍は士官もキャスケットをかぶっていたのか? てっきり兵士用だと思っていたのだが。
 ヴィクトールが二日目のデゴに参加していたのは事実のようだ。こちら"http://www.napoleonic-officers.net/web/battles/dego.html"にはデゴの戦いに参加した士官の名がずらずらと記されており、その中にはヴィクトールもしっかり載っている。なぜオージュロー師団所属の彼がデゴにいたのかが不思議ではあるが、Ramsay Weston Phippsの"The Armies of the First French Republic volumeIV"によれば、13日にオージュローがミレシモに向かった際に、ヴィクトールと1000人の部隊をカルカレに残したのだという。15日、デゴを取り返すべく部隊を差し向けた時にカルカレに司令部を置いていたボナパルトがヴィクトールにもデゴ行きを命じたようだ。
 では彼はデゴでどのような活躍をしたのか。この点になると研究者によって書いている内容が異なる。Phippsによればオーストリア軍がフランス軍の縦隊を撃退し、塹壕から出てきて追撃を試みた時にヴィクトールがその退却を掩護したことになる。Martin Boycott-Brownの"The Road to Rivoli"によればヴィクトールは第18半旅団と伴に行動しており、フランス軍縦隊が攻撃を仕掛けた際に散兵を展開して支援したことになっている。Fabryが編集した"The First Phase of Napoleon's 1796 Campaign in Italy"にはヴィクトール率いる第89半旅団に対し、ボナパルトが縦隊を組むよう命じたとの記述がある。要するに、彼の具体的行動についてはよく分からない。

 ヴィクトールに関して調べているうちに、それ以外についての疑問も再度浮かび上がってきた。まず漫画ではランヌが率いていた第51半旅団だが、Boycott-Brownの本には「コース将軍麾下」という表現が出てくるのだ。第51半旅団には「新」「旧」双方が存在したことは前にも指摘しているが、ここに出てくる第51半旅団がどちらのことを示しているのかは不明。一方、Fabryの本によればコースが進軍の先頭に立ったのは第99半旅団。彼はその際に重傷を負い、ボナパルトに「まだ沈まずや」もとい「デゴは奪回できましたか」と聞いたらしい。どの国にも似たような話があるものだ。
 ランヌがデゴの2日目に活躍したという話に疑問を呈している人もいる。Phippsは「セント=ヘレナのナポレオンは、ランヌの活躍を目に止めたのがこの日[2日目]だと信じていた(Corr. Nap. xxix. 88)が、実は初日である。Corr. Nap. i. 151を見よ」と記している。実際のナポレオン書簡集にどう記されているかは手元にないので調べられないが、こちら"http://www.napoleonic-literature.com/Book_22/1796.htm"には当時のナポレオンが記した書簡を英語に抄訳したものが載っている。それによると4月15日付の書簡でミレシモの戦いについて触れた中で、「第39[半旅団]の大佐が戦死したので、代わりに市民ランヌを指名しました」との記述がある。デゴの2日目とは15日のことだからこの記述がデゴの戦い終了後である可能性もあるが、一方で翌16日付の手紙にデゴの戦いが触れられているのを見るとランヌを引き立てたのはデゴの戦いが終わる前だとも考えられる。
 もう一つは天候。漫画ではずっと普通の天気だったように描かれているが、これはおそらく事実ではない。Boycott-Brownはヴィゴ=ルシヨンの回想録から「芽月26日[4月15日]、一晩中やむことのなかった雨は朝の間も降り続いていた」との文章を引いている。Fabryの本にも14日から15日にかけての夜の間に激しい雨が降り出し、フランス兵がはたった600人だけを残して堡塁から近くの家へ逃げ出したと書かれている。オーストリア軍による奇襲が成功したのは、フランス軍の油断だけが理由ではなく、天の助けもあったのである。

 おっと、漫画の感想を忘れていた。今回一番笑ったのは「あだ名? 何のことだ」(忘れてる!)の場面。

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