「即ち信長は3000人の銃手を1000人宛の3列に配し、敵騎をば1町以内に引込んでから、まづ第1列に一斉射撃をさせた。そうして、第1列は第3列の後方に引きさがって装填する。第2列は直ちに第1列が最初に占めていた位置に進んで、また一斉射撃をやって後退した第1列の後方へ退く」(374/466)
そもそも三段撃ち自体が根拠不足(信長公記などには載っていない)なのだから、現実の長篠合戦で「撃って後ろに下がる」射撃法が行われたと考えるのは無理があるだろう。しかしだからと言って、この時代に交代で射撃を行う輪番射撃がなかったと結論を出すのは早計だ。「東アジアの兵器革命」にもあったように、日本兵捕虜が輪番射撃を行っていた証拠は中国語文献にもある。そして、日本語文献にもあるらしい。
ただこの本にはソースが載っていない。それを調べるうえで参考になるのはこちら"
http://togetter.com/li/930048"。例えば細川幽斎の話はおそらく「細川幽斎覚書」あたりがソースだろう。50挺を2組に分けるのは「井伊軍法」だろうし、上杉家の方法は「上杉家大坂御陣之留」に書かれていると思われる。さらに井伊軍法と同じ方法をそれより以前に使っていたと見られるのが、本願寺の鉄砲衆だ。
あるいは信長公記"
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781192"の村木城攻撃も、輪番射撃を示している可能性がある。信長が狭間の攻撃に際して「鉄砲取かえ取かえ放させられ」(11/51)という文章は鉄砲自体を取り換えながら撃つ「取次」だと思われるが、銃手が交代しながら撃つという風に読めるとの指摘もある。要するに以前も書いたが、輪番射撃という手法自体はおそらく誰でも思いつくのだ。
ただ、日本の事例を見る場合、それほど大規模な輪番射撃が行われた様子はない。本願寺程度の規模(50人)だとやはりせいぜい散兵での活動が中心だと思われるし、その規模ならどう「立ち替わり」どう「撃つ」かについていちいちマニュアル化する必要もないだろう。だがより大規模な輪番射撃をするなら、おそらくそう簡単にはいかない。ビコッカの戦い"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54583029.html"のような具体的運用法をきちんと定め、なおかつ訓練もしておかなければ、期待した効果は出ないと思われる。
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