三段撃ち「伝説」の歴史

 長篠の「三段撃ち」はおそらくなかった。それが今では通説になりつつある。だが三段撃ちは我々日本人の脳裏にかなり強く刻まれているようで、例えばこんなパロディ"http://portal.nifty.com/kiji/140708164562_1.htm"も存在する。最前列が撃ち、それから一番後ろに下がり、次に二列目が撃つというやり方"http://kamurai.itspy.com/nobunaga/odake3.png"を聞いたことがある人は山ほどいるだろう。
 だがこの「撃って後ろに下がる」という三段撃ち法がどこから出てきたのかというと、実ははっきりしない。一般的に三段撃ちを最初に言い出したのは小瀬甫庵だと言われているのだが、彼の信長記"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544602"を見ると、長篠合戦の三段撃ちに関する説明はかなり曖昧である。
 彼が書いているのは「千挺宛(ずつ)放懸、一段づつ立替々々打すべし」(18/27)という一文だけだ。兵たちがどのように「立ち替わり」、どう「撃った」のか、信長記を見てもさっぱり分からない。これは小瀬甫庵より後の江戸時代に書かれた総見記(織田軍記)"http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko06/bunko06_00954/bunko06_00954_0004/bunko06_00954_0004_p0015.jpg"でも、四戦紀聞"http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_03991/ri05_03991_0003/ri05_03991_0003_p0021.jpg"でも同じである。
 そして三段撃ちの通説化に寄与したと言われる参謀本部の本でも、状況は変わらない。「日本戦史 長篠役」"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771066"には「千挺づつ三替りにして敵を狙い」(94/177)としか書かれておらず、具体的な射撃法については言及がないのだ。ただもう一つ、通説化に貢献したとされる大日本戦史"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1062825"については、ネット上で内容が確認できなかった。
 私が探した限り、長篠の三段撃ちについて「撃って後ろに下がる」という記述が初めて出てくるのは1942年だ。佐藤堅司の記した日本武学史"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453507"の中に以下のような文章が出てくる。

「即ち信長は3000人の銃手を1000人宛の3列に配し、敵騎をば1町以内に引込んでから、まづ第1列に一斉射撃をさせた。そうして、第1列は第3列の後方に引きさがって装填する。第2列は直ちに第1列が最初に占めていた位置に進んで、また一斉射撃をやって後退した第1列の後方へ退く」(374/466)

 佐藤堅司はこちら"http://blog.livedoor.jp/sonshimtg/archives/340902.html"によると西洋史の研究から日本史の研究に進み、戦後は孫子の研究を行っていた人物らしい。この本以外にも世界兵法史(西洋篇)"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460294"やナポレオンの政戦両略研究"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460289"といった本を記しており、要するに軍事史の研究家だったようだ。
 日本武学史を見ても佐藤堅司が何を論拠にこの「撃って後ろに下がる」説を持ち出したのかは分からない。ただ彼が最初に西洋史を研究していたことを踏まえるなら、もしかしたらマウリッツに代表される欧州のカウンターマーチ戦術"http://s1109.photobucket.com/user/HackneyedScribe/media/William%20Countermarch_zps4hjwzy0r.png.html"についての知識があったのかもしれない。このカウンターマーチ戦術は図を見ても分かる通り「撃って後ろに下がる」方法だ。長篠合戦について読んだ佐藤の脳裏にこの戦術が思い浮かんだと考えるのは、果たしておかしいだろうか。

 そもそも三段撃ち自体が根拠不足(信長公記などには載っていない)なのだから、現実の長篠合戦で「撃って後ろに下がる」射撃法が行われたと考えるのは無理があるだろう。しかしだからと言って、この時代に交代で射撃を行う輪番射撃がなかったと結論を出すのは早計だ。「東アジアの兵器革命」にもあったように、日本兵捕虜が輪番射撃を行っていた証拠は中国語文献にもある。そして、日本語文献にもあるらしい。
 まとめて紹介しているのはこちらの本"https://books.google.co.jp/books?id=GvqSecvpvL4C"。例えば細川幽斎が「弓鉄砲の者が2組あったら、1組が応戦している間に、もう1組は先へ行って装填して待つように」指示した話や、山崎閑斎が大坂夏の陣で「鉄砲足軽を2段に備えておいて、1段ずつ発砲させた」話、さらに井伊家の「鉄砲が仮に50挺あったら、25挺ずつ撃つように」する方法、上杉家の「鉄砲衆は3分の1ずつ発砲する」やり方などがあったそうだ。
 ただこの本にはソースが載っていない。それを調べるうえで参考になるのはこちら"http://togetter.com/li/930048"。例えば細川幽斎の話はおそらく「細川幽斎覚書」あたりがソースだろう。50挺を2組に分けるのは「井伊軍法」だろうし、上杉家の方法は「上杉家大坂御陣之留」に書かれていると思われる。さらに井伊軍法と同じ方法をそれより以前に使っていたと見られるのが、本願寺の鉄砲衆だ。
 陰徳太平記"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772378"の中に「此日大坂より打出たる鉄砲足軽は、25人に1人の小頭を付け、50人を1組と成し、下知を加えて射させける」(110/262)という一文がある。こちら"http://sakigakesamurai.blog46.fc2.com/blog-entry-627.html"にまとめられている通り、本願寺は石山合戦の際にこうした方法で鉄砲を運用していた。おそらくは交代射撃も行われていたことだろう。
 あるいは信長公記"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781192"の村木城攻撃も、輪番射撃を示している可能性がある。信長が狭間の攻撃に際して「鉄砲取かえ取かえ放させられ」(11/51)という文章は鉄砲自体を取り換えながら撃つ「取次」だと思われるが、銃手が交代しながら撃つという風に読めるとの指摘もある。要するに以前も書いたが、輪番射撃という手法自体はおそらく誰でも思いつくのだ。

 ただ、日本の事例を見る場合、それほど大規模な輪番射撃が行われた様子はない。本願寺程度の規模(50人)だとやはりせいぜい散兵での活動が中心だと思われるし、その規模ならどう「立ち替わり」どう「撃つ」かについていちいちマニュアル化する必要もないだろう。だがより大規模な輪番射撃をするなら、おそらくそう簡単にはいかない。ビコッカの戦い"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54583029.html"のような具体的運用法をきちんと定め、なおかつ訓練もしておかなければ、期待した効果は出ないと思われる。
 以前にも書いた"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54574415.html"が、日本での鉄砲使用はスイスのパイク兵と似たレベルにとどまった。だから具体的な輪番射撃法を定める必要もなかったし、小瀬甫庵の記述のように曖昧なままでも問題なかったのだろう。戦争が続けば輪番射撃のより具体的なマニュアル化まで踏み込む必要も生じたかもしれないが、西欧と異なり日本ではやがて戦争が終わった。
 こちら"http://sakigakesamurai.blog46.fc2.com/blog-entry-624.html"の記事を信用するなら、加藤清正の部隊には長柄足軽がいない一方、鉄砲の比率が高いという特徴があった。彼は鉄砲に精通しており、長柄槍の不在を鉄砲で補おうとしていたのだという。もしそれが事実なら、そしてもう少し彼に軍事改革を進める時間が与えられていれば、彼は東洋のゴンサロ・デ=コルドバになっていたかもしれない。
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