輪番射撃図の淵源

 以前、輪番射撃に関するエントリー"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54583029.html"を書いたことがある。「東アジアの兵器革命」"http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b73821.html"という本がネタ元なのだが、そこで最も象徴的に使われているのが、あたかも中国兵が「三段撃ち」をしているかのようなこちらの図"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ming_musketeers.jpg"だ。
 この本では冒頭にこの図を紹介し、それが17世紀前半(1630年代)に書かれた「軍器図説」という書物に載っていること、それ以前の16世紀の兵法書中に「鉄砲を輪番に一斉射撃するというきわめて有効な戦術に関する記述は、管見の及ぶ限り見出すことはできない」(p2)点を指摘している。さらに前回のエントリーでも書いているが、文献資料に日本軍や日本兵捕虜が輪番射撃を行ったと記しているものがあることを紹介。そのうえで「鉄砲の輪番射撃の戦術が、日本では少なくとも16世紀末の時点において存在していたこと、そして朝鮮の役終結後の明朝に伝播したであろうことが、中国史料の記述によってうかがえる」との見方を示している。
 読んだときはなるほどと思った説なのだが、最近になってツイッターである指摘を見かけた。鉄砲ではなく弩を使った輪番射撃なら、明朝より前から中国には存在していた、というものだ。それが事実なら、輪番射撃は日本から伝わったのではなく中国に以前からあった弩の使用法を応用したものである可能性が出てくる。果たしてどちらが正しいのか。

 まずはそもそも本当に弩を使った輪番射撃があったのかどうかだ。これが実は探せば容易に出てくる。何しろ鉄砲の三段撃ちを載せている「軍器図説」そのものに、弩の輪番撃ちの図も掲載されているのだ"https://www.facebook.com/notes/huang-jun-xiang/%E5%BC%A9/1301978666494882/"。弩の方は4人ずつ3列と鉄砲の「5人ずつ3列」とは少し数が違うが、「輪流」という言葉を頭にそれぞれの列の行動を説明している部分を含めて似ている部分の方が多い。少なくとも鉄砲輪番射撃と同じ時期に弩輪番射撃の図も存在していたことは事実である。
 いやそれどころか遡ることもできる。一つは「耕余剰技」という本。こちら"http://blog.xuite.net/fryuan1954/wretch/104434033-%E8%80%95%E9%A4%98%E5%89%A9%E6%8A%80"の6枚目の図を見てもらえば分かる通り、やはり「輪流」と名付けられた3列の輪番射撃図がこの本にも掲載されている。この本が出版されたのは1620年代"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E5%AE%97%E7%8C%B7"と朝鮮役より後なのは確かだが、これが日本から伝わったものでないことは間違いないだろう。少なくとも当時の日本で鉄砲ならぬ弩の輪番射撃が行われていたことを証明しない限り、この撃ち方が日本由来と主張するのは無理である。
 そもそも弩の輪番射撃を記した史料はもっと遡ることが可能だ。一例は北宋の時代に書かれた武経総要"http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=110312"。同書巻2の「教弩法」のところには「但於陣中張之、陣外射之、進則蔽以旁牌、以次輪回、張而復入、則弩不絶聲」という文章があり、さらにこちらのような図"http://www.cos.url.tw/images/array0303.jpg"も掲載されているという。
 この図のオリジナルはTonio Andradeの書いたThe Gunpowder Age"https://books.google.co.jp/books?id=1jRJCgAAQBAJ"のp153にも掲載されている。中国国家図書館の史料から抜き出したこの図は弩兵が3列に並び、最前列が「発弩人」、2列目が「進弩人」、3列目が「張弩人」と呼ばれていたことを明確に示している。耕余剰技で使われている用語と全く同じであり、軍器図説にもとても似ている(張弩が上弩になっている部分のみが違う)。
 Andoradeの英訳を参考にするなら、武経総要では弩の使い方について「隊列の内側にいる者は弦を張り、外側にいる者は撃つ。もし[敵が]接近するなら小さな盾に隠れ、それぞれ交代しながら弦を張っては撃つ。かくして弩の音は止むことがない」(p152)と記していることになる。まさに輪番射撃のやり方であり、掲載されている図もそれを裏付けるものと言っていいだろう。
 まだまだこれで終わりではない。さらに遡ることもできるのだ。例えば唐で8世紀頃に書かれた「通典」"http://ctext.org/tongdian/zh"の兵二には「復以陣中張、陣外射、番次輪迴、張而復出、射而復入、則弩不絶聲」という文言がある。そしてこれとほぼ同じ文章が、やはり唐で8世紀に記されたという「太白陰経」"http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=381525"巻六にも載っている。
 この太白陰経"http://www.cos.url.tw/book/3/O-1-023-d6.htm"には図"http://www.cos.url.tw/images/23-6-70.gif"も載っている。四方を囲んだ方陣の前面部分に「発弩」と書かれた兵が並び、その後方に2列に並んだ「張弩」兵がいる。その後ろには「大将軍」と「鼓」がおり、どうやら太鼓の合図で弩を交互に撃っていた様子がうかがえる。つまり日本で鉄砲の輪番射撃が行われた16世紀を遡ること実に800年も前から、中国では「弩の輪番射撃」が行われていたのだ。

 以上の流れはこちらのサイト"http://www.cos.url.tw/tacticspattern/id10001.htm"に要領よくまとめられている。明朝時代の書物(軍器図説)に載っている鉄砲の三段撃ちっぽい図の背後には、実はそれだけの歴史があったと考えられるのだ。少なくともこれらの史料を見たうえで、軍器図説のあの図が日本から伝播した軍事技術を示したものであると断言するのは難しい。そうではなく、昔から中国で使われていた弩の使用法が鉄砲に転用された可能性が十分に出てきてしまう。
 弩の歴史については中国は古い。紀元前の戦国時代のものと見られる孫臏兵法には既に弩の文字が出てきており、その後もコンスタントに使用された。一方、日本では古代に使用例が見られるものの武士の台頭以降は長弓の使用が中心となり、16世紀には欧州から伝わった火器へと飛び道具はシフトしていった。鉄砲の輪番射撃はともかく、弩の輪番射撃を日本由来とみなすのは無理だろう。
 逆に言えば、軍器図説の図をもとに日本の戦闘方法が明に伝わったと解釈するのは根拠として弱いってことだ。他に日本軍や日本兵捕虜が輪番射撃をしたことを記した史料があるのは事実だが、それはあくまで日本兵がそういうやり方をしていたことを説明しているに過ぎず、日本から明へ戦法が伝わったことを直接証明するものではない。昔ながらの弩を使ったやり方を鉄砲に応用したと考えても、全く不自然でないのだ。いやむしろ、どちらも「輪流」という用語を使っていることを踏まえるなら、そちらの方が本命と言ってもいい。
 それどころか、逆に長篠の戦いで採用された輪番射撃の元ネタが中国の弩活用法にあった、と考えても矛盾はない。何しろ800年も前から使われていた方法だ。日本にも兵法書を通じてやり方が伝わっていた可能性は十分ある。日本では弩の使用が少なかったからあまり役に立たなかったが、鉄砲伝来とともにその方法が再び注目され、長篠の戦いで採用されたとしても、別におかしくはないだろう。
 アイデアが中国発ではなく欧州発であった可能性すらある。以前にも書いた"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54476721.html"通り、16世紀初頭には欧州で輪番射撃が使われていたのだから、宣教師などを通じてそのアイデアが日本に伝わっていたとしてもやはりおかしくはない。要するにこの手の「アイデアの伝播」は、よほど明確な証拠がない限り立証するのは難しいんだと思われる。鍛鉄製の鉄砲のように日本から伝わった可能性が高い技術もあっただろうが、輪番射撃をそれに含めるのは、実は難しいんじゃないだろうか。

 個人的に輪番射撃というアイデアは誰でも思いつくレベルのものだと思っている。実際、弩の使用頻度が高かった中国、日本より先に火器の使用が増えた欧州では、いずれも長篠の戦いより前からアイデアが使われ、記録されていた。日本でも火縄銃の使用が増えた結果、当然のように使われるようになっただけに過ぎないのではないか。必要は発明の母。装填に時間のかかる飛び道具の使用が増えればどこでも使われるようになる戦術の1つが輪番射撃だと考えられる。
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