ダヴーの反応

 皇帝の手紙を読む際に勘違いしたベルティエは、ダヴ―に対して「陛下の意図」を以下のように説明している。即ち「レーゲンスブルクへのあなたの移動とこの町周辺におけるあなたの軍団の布陣によって、あなたはサン=ティレール師団、ナンスーティ師団及びモンブリュン将軍の軽騎兵師団を状況に応じてフライジンクあるいはランツフートに配置できるようになります。バイエルン軍についてはその陣地を維持し、もし敵が移動するならレッヒ河畔にて再配置します。シュトラウビンクを占拠すること、及びもしこの地点を撤収する際に敵がまだ遠くにいる場合、ドナウに架かる橋があるならそれを破壊する手段を取る必要があります」(Campagne de 1809 en Allemagne et en Autriche, Tome Deuxième"https://archive.org/details/campagnedeenall00goog" p138)。
 この内容は、基本的に皇帝の手紙に「もし敵が何の移動もしていなければ」と書かれていた場合の部隊配置である(p123-124)。実際にはオーストリア軍は既に進軍を開始していたのだからこの配置は取りやめるべきだったが、そのあたりをベルティエが読み取れていなかったことが分かる。シュトラウビンクはレーゲンスブルクより40キロメートルほど下流のドナウ沿いにある町であり、ランツフートは南方60キロメートル、フライジンクはそのランツフートから南西36キロメートル離れたところにある町であり、いずれもレッヒ河のずっと東方に存在する。

 この手紙を受け取った際のダヴーの反応が面白い(p145-148)。インゴルシュタットで4月14日夜1時15分の日付で書かれたこの手紙の冒頭、まず彼は「今夜レーゲンスブルクに出発し、翌日そこで軍を集めるためにできる何でもします」と命令に従うことをはっきり述べる。とりあえずは服従の姿勢を見せるわけだ。
 だがそれから彼は命令に対する疑問を指摘する。サン=ティレールやパジョルからの報告書を送るとしたうえで「これらの報告が事実なら、ヴレーデ将軍の行軍に大いに懸念があります」と記し、また「私が到着する時にレーゲンスブルクが撤収されている恐れを隠すことができません」とも述べている。さらにはレーゲンスブルクへの道が「困難で、町に至る道が1つしかなく、しかもその前に2リューの隘路があります」とも書いている。
 レーゲンスブルクへの進軍の代わりにダヴーは「最良の機動はインゴルシュタットから出撃することのように思えます」と指摘。「軍の全てを素早くそこに集めることが容易」なのが理由で、「まだ閣下の返事を受け取る時間はあります」と記してベルティエに再考を促している。ただしその後に「もし閣下が命令の実行を主張するのであれば私はそれを成し遂げますし、その結果を全く恐れません」とも記して、改めて服従の姿勢だけは強調している。
 おそらく本音のところでダヴーはベルティエの命令が間違っていると思っているのだろう。だから文中でくどくどと考え直すよう書き記している。一方、最初と最後に命令にはきちんと従うということもはっきりと言及している。別にベルティエを恐れていたわけではなく、その背後にあるのが本当に皇帝の命令であった場合を踏まえての対応だろう。ナポレオンが独裁者であり、自らの命令に有無をいわず従う部下を求めていたことは、以前紹介したバイレンの話からも分かる。ダヴーはそうしたナポレオンの性格を熟知していただろうし、それに対する対処法も心得ていたはずだ。
 しかしこうしたダヴーの遠慮がちな再考要請はベルティエには全く届かなかった。14日夜10時に書かれたベルティエの手紙には「アウエルシュテット公殿、この手紙はレーゲンスブルクにいるあなたのところへ届くものと思います」(p160)とあるし、15日朝2時の手紙では「我々はまだレーゲンスブルクを支配しているので、あなたはドナウ両岸を行軍する必要がありますし、またそこに到着したなら皇帝の命令に従って布陣するように」(p166)と記している。結局、ベルティエは勘違いしたまま命令を発し続け、ダヴーは16日朝にレーゲンスブルクに到着した(p187)。

 ベルティエのこのやらかしは、後の歴史家にも当然非難されている。ほんの一例だが、Alisonは「フランス人自身が白状しているように、ベルティエは軍を壊滅寸前に追い込んでいた」(History of Europe from the Commencement of the French Revolution, Volume the Seventh."https://books.google.co.jp/books?id=m6JBAAAAcAAJ" p246)と記している。Alisonの言う「フランス人」は実はスイス人のジョミニのことなんだが、一応これがよくある事例であることは間違いない。
 もちろん逆張りをする歴史家もいる。Watsonは歴史家と呼ぶにはいい加減すぎるが、実は他にも意外な人物がベルティエの応援に駆け付けている。Thiersだ。
 彼はHistorie du consulat et de l'Empire. Tome Dixième"https://books.google.co.jp/books?id=TNonAQAAIAAJ"の中で、脚注を使って長々とベルティエを擁護している。彼は「注意深くこれらの[ベルティエの]命令を読み、それを日付を追い時間を追ってナポレオンの命令と比較したが、非難を正当化できるものは見つけられなかった」と指摘。彼によればナポレオンは「予想しているより早く戦争が始まった場合はレッヒとアウグスブルクへ後退し、そしてどんな場合でもダヴーはレーゲンスブルクに残すよう命令」(p121)したことになっている。
 これに反論したのがPierre Lanfrey。彼はHistoire de Napoléon 1er, Tome Quatrième"https://books.google.co.jp/books?id=2TlQRDnBJU4C"の中で「ダヴーが『どのような場合も』レーゲンスブルクにとどまるよう、それ[ナポレオンの命令]が述べているのは間違いない。だがそれに先行する『もし敵が何の移動もしていなければ』という言い回しは、疑問の余地を残さない」(p506)と指摘。あくまで敵が移動していない場合に限ってダヴーをレーゲンスブルクにとどめることになっていたと述べている。
 正直、Thiersのように親ナポレオン的視点で本を書いている人物がベルティエをかばうのは予想外だったので、この文章を見つけた時には正直驚いた。ただこの点についてはLanfreyの指摘の方が妥当であろう。前にも書いた通り、ナポレオンの命令はたとえ腕木通信経由の手紙がなくても、きちんと読めば間違えようがないものだ。
 Thiersはベルティエがナポレオンの意図に反して大胆な部隊配置をしたのではないと言っている。確かにベルティエはナポレオンの意図から逸れた命令を出しているつもりはなかっただろう。でも彼が勘違いをしていたことは否定できな事実だ。もしかしたらベルティエは連続勤務で疲れ切っていたため、ナポレオンの曖昧な言い回しの命令をきちんと読み込むことができなかったのではないだろうか。この件はブラック職場ならではのトラブルのように思える。
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