数式をやたらともてはやしていた経済学の世界で、最近になってむしろデータ重視の流れが出てきたのがその一例だろう。ピケティがやったようにまずデータを集め、そのデータから読み取れる理屈を提示するという帰納的な方法が実際に使われるようになってきた今では、先に理論ありきの数式モデルから入る方法には不安を覚える。果たして理論倒れにならないだろうか。もしかしたら経済学における合理的選択理論のように、現実の人間行動からかけ離れた前提を置いているのではないか。
数式を立ててモデルを構築するのはいい。問題はそれと現実を照らし合わせる作業の部分だ。理論にとって都合のいいデータのみを集めて作業しているのではないか、精緻な理論を追い求めるあまりデータでの裏付けが不十分なところまで踏み込んでいるのではないか。色々な懸念が想定される。
著者の取り扱う「データ」の1つに、帝国の領土面積が含まれている部分も不安材料の1つだ。面積は国力と比例するものではない。例えば極めて人口密度の薄い地域ばかりをもっている国の面積と、逆に密度の高い国の面積を同一視するのは問題があるように思う。実際には欧州という限られた地域を取り上げることでこの問題をできるだけ回避しようとしているようだが、欧州内だって人口密度には差がある。
かといって人口をパラメーターにするのはさらに難しいのも事実。著者が指摘するように、歴史的な人口はほとんどの場合、推計値しか得られない。まだ帝国領土の広がりの方が妥当性の高いデータを得られることは確かだろう。モデルを現実と対比する作業がなければ机上の空論になってしまうのは間違いないが、比較する「現実」自体が曖昧であるという問題は歴史を取り扱う以上、避けて通れない。
でも欧州ほど長期にわたって小国分立が続いた地域が、果たしてそんなに一般的だろうか。中国では逆に地理的にまとまった範囲を大きな帝国が覆う時代の方がずっと長かったわけだし、日本でも分断よりは統一時期の方が一般的だろう。インドや中東などはまた違うダイナミズムにさらされており、欧州よりは国家が大きいが完全に統一されていない時代が続いたイメージだ。欧州で通じるモデルが他でも通じるのか、これから調べる必要があると思う。
色々と懸念や不安もあるが、しかし全体として面白い本だったのは間違いない。まず国家の内在的な興亡メカニズムを「アサビーヤ」という概念でまとめたのがいい。個人的には著者が力を入れて書いている辺境からの帝国誕生より、帝国拡大によって中心部でアサビーヤが衰退していくという議論の方が面白かった。包括適応度と等価である「マルチレベル選択」を取り込んでいるところがいい。
マルチレベル選択は、ウィルソンによれば「グループ内では利己性は利他性を凌駕する、利他的グループは利己的グループを凌駕する」ということだ。グループ間の争いの方が遺伝子の包括適応度に直結するような環境であれば、利己性を抑制してグループに貢献するような行動を取るのは合理的である。一方、環境が変わればもっと直接的な利己性を発揮した方が包括適応度を高める。辺境にいるか、中心部にいるかによって、行動原理が変わってくるという見方は興味深い。
限られた資源の奪い合いという農業社会の特徴が、集団間ではなく集団内の争いを生み出すという指摘も重要だろう。人口構造を論じるところで、著者は国家の衰退をもたらすのは平民による反乱ではなくエリート間の抗争であることが多いと指摘している。エリートが限られた資源を奪い合うようになれば、敵は国境の外より内側にいることになり、それが衰退や滅亡につながるわけだ。
逆に地政学などで重視される集団間での資源の奪い合いは、モデルとしてあまり適切だと思われていないようだ。確かに領土の拡大が利用資源の拡大に直結する簡単なモデルが成立するなら、現実には大国が亡ぶことなどないはずだ。多くの国盗りゲームのように、終盤になって自国がマップの半分以上を支配すると後は単純作業の繰り返しでマップ全体を征服するだけになる展開が、史実でも見られるべきだろう。でもそうなってはいない。
集団間の資源争奪が重要な局面もある。少なくとも辺境で生き残りをかけて争っている各エトニーにとっては他の集団から資源を奪い国として存立基盤を固めるのは必須の義務だ。でも帝国が拡大をはじめ、低かった人口密度が高まり、平民もエリートも人口が増え、中心部から辺境が遠ざかっていくにつれ、状況は変わる。領土拡大が資源拡大に直結しなくなる局面がやってくる。利己主義が利他主義に取って代わり、アサビーヤが衰退し、帝国を成立させていたソーシャル・キャピタルが失われる。そして滅亡が訪れる。
しかし滅亡は必ず訪れるとも限らない。2~3世紀の永年サイクルを経て逆境に直面しても「アサビーヤがまだ高ければ、帝国は困難な時期の後に復活する」。例えばローマは「共和国」「元首政治」「専制君主」という3つの永年サイクルを乗り越えた後に崩壊した。フランスはカペー朝、ヴァロワ朝、ブルボン朝を乗り越えて4つ目のサイクルに入っている。滅亡が訪れるのは「アサビーヤがあまりにも衰退している場合」だ。
そして、人口構造に基づく永年サイクルではエリートの存在が重要だったのに対し、長期的な成功においては平民のアサビーヤが重要かもしれないという指摘も、実に興味深い。著者はシチリアの例を上げ、同じようにノルマン人に征服されたイングランドと大きく差がついた理由が平民のアサビーヤにあるのではないかと見ている。シチリア島はローマ時代以降、イスラム勢力との角逐の場となった9世紀を除いて辺境強度は低かった。一方、イングランドは3~7世紀、あるいは9~10世紀に高い強度を経験している。
いずれもエリート層はノルマン人でありアサビーヤがそう大きく違ったとも思えない。しかし平民層のアサビーヤはイングランドが高かったのに対し、シチリアは低かったと見られる。ちなみに現代においてもパットナムは南イタリアのソーシャル・キャピタルが北イタリアに比べて低いと指摘しており、その低さが自治体の非効率性と腐敗を生んでいるという。マフィアの存在も遡れば低いアサビーヤに由来するのかもしれない。
この本は「満つれば欠けるは世の習い」という言い回しをより精緻に論じようとしたものだ。そしてこのモデルが正しいのであれば、興亡は避けて通れないことになる。もちろん産業革命後はもっと多くのパラメーターを考えなければならないため、単純にこの本て提示された方程式を当てはめるわけにはいかないだろう。それでもアサビーヤ(現代なら素直にソーシャル・キャピタルと言うべきかもしれない)の衰退といったものの影響は無視できないだろう。
違いがあるとしたら、産業革命後になって先進国で人口増がストップしていること。従来は人口増が永年サイクルをもたらし帝国滅亡の一因になっていたわけだが、現代社会では人口増が自発的にストップするという農業社会では見られなかった現象が起きている。つまり供給が変わらなければ、需要の減少によって利己的であるインセンティブが乏しくなる可能性があるのだ。利他主義と、アサビーヤという名の慣習の力で維持してきた国家の安定が、もっと即物的なレベルで達成できる時代になるのかもしれない。
現代人はむしろ人口の減少を恐れている。最近では移民ですら取り合いになる時代が来るとまで言われている。でもそんなことを心配する時代ってのは、歴史的に見ればおそらく極めて珍しいんだろう。帝国の衰退に直面して悪戦苦闘していた人間が現代社会を見たら、心の底からうらやむかもしれない。
コメント
データ収集やモデル自体の妥当性は別としても、
tを媒介とする2変数で国家の興亡を説明するというモデルは、確かに簡明ですが数学的には何かが欠けているように感じられます。あの方程式のみではパラメータを固定すると一度きりの単調な興亡が起こり得るだけであって、一方で現実的なモデルは複雑すぎて数値計算ぐらいしか出来ないでしょう。
しかるに、ハルドゥーンの歴史序説にはアサビーヤそのもの以外に、文化的威信とでも言うべき、もう1つ別の要素が読み取れます。この潜在的な要素を組み入れればより良いモデルになるのではないでしょうか。
何と言っても力学系理論では3変数になった途端に記述できる現象が激増することになります。2変数では記述できない振動を伴う盛衰など(エジプトやビザンツのような)も容易いです。
この3変数方程式を上手く設定すれば、系のパラメータを固定しても、開始時点での国の大きさ、アサビーヤ、文化的威信の値によって凡そあらゆるタイプの興亡が描き出されるのです。
2020/07/28 URL 編集
2020/07/28 URL 編集
そういった説明事例を見たことは寡聞にしてありませんし、私自身がTurchin氏のような膨大な歴史データを収集して統一理論を立ち上げるだとか、そういうつもりで言ったわけではありません。彼の独創の価値を毀損しようとする意図はありませんし、文化的威信なるものの定義やモデルの考案が難儀な事も重々承知です。アサビーヤにかなり類似した方程式が立てられるだろうとは思いますが。
ただ単に、数理的な感想としては、数学的に3次元的な渦巻きを作り出せば国力-アサビーヤという2座標平面の上で多様な振動を表現する事が簡単になると言いたかっただけで、実際に具体的パラメータ設定等を行う意思や能力を伴わないある種の無責任な言い分に過ぎませんのでご容赦下さい。
2020/07/29 URL 編集
Turchinは別の本の中で、モデルは可能な限り単純にすべきだと述べています(元はアインシュタインが言ったとされている言葉だそうです)。
彼のモデルが単純なのだとしたら、もしかしたらそれが理由かもしれません。
2020/07/29 URL 編集
幾つかのサイクルを乗り越えつつ存続するという部分が、3変数方程式系の振動に重なったので、もう1つ次元を導入するのも悪くないのでは、と思ったのです。複雑になってしまうのはやむを得ませんが。
ビザンツの後半期などは、アサビーヤなんて木っ端微塵だったでしょうし、まさに「文化的威信」で存続していたようにしか思えません。
おそらく数理の徒なら、誰もが一度はそのような考えを巡らせるでしょう。
2020/07/30 URL 編集
複雑なモデルを構築できるだけ粒度の細かいデータが揃えられるのは、ずっと将来の話になるのではないでしょうか。
2020/07/30 URL 編集