1930年代のメディアミックス

 前から気になっていたのだが、なぜLittle Womenという作品が「若草物語」という邦題になってしまったのか。ちょっと調べてみると、最初は映画だったという話があった"https://twitter.com/tuscanblue2015/status/646376346591989760"。1933年に公開されたキャサリン・ヘプバーン主役の映画"http://www.amazon.com/dp/B00005NRO2"の邦題が「若草物語」だったのだそうだ。
 そもそもこちら"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9501588"によれば最初にLittle Womenが翻訳されたのは1906年(p57)。題名は直訳の「小婦人」"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/896954"だった。その後も1923年出版の「四少女」"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1168401"、また1932年出版の本では「四人姉妹 リトル・ウィメン物語」となっているらしい。
 それに対し1933年の映画の邦題が「若草物語」になったのは事実のようだ。キネマ旬報の1934年9月号"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7904780"には「外國映畫紹介」の中に若草物語があるし、婦人之友の同年10月号"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3562596"に「映畫・若草物語 / リツル・ウイメン」の記事が、映畫育の10月号"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1891447"にも若草物語の「興行映畫批評」が掲載されている。
 1935年出版の「欧米映画論」"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1238388"の中には、この映画の監督だったキューカーに言及しているところがあり、「若草物語」について触れている(p310-311)。原題がLittle Womenだった映画が、日本では「若草物語」の名で知られていたことは間違いないだろう。
 ところが、映画が公開された同じ1934年に出版された本で、全く同じく「若草物語」と名付けられたものがある"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1229347"。矢田津世子が翻訳し、少女畫報社なるところが出版したもので、目次を見る限りどうも抄訳らしい感じはするが、オルコットの書いたLittle Womenの翻訳に間違いない。

 1934年秋公開の映画と、同年出版の本。果たしてどちらが早いのか。そう思って調べると、こちら"http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000098697"のレファレンスが興味深いことを指摘していた。
 それによると矢田訳「若草物語」の発行日は「奥付によれば1934年9月20日」、一方で同年10月4日の読売新聞夕刊に載っていた広告によれば「映画の封切りは(中略)同年10月4日」だったという。微妙な差で本の方が先に出たことになるが、それにしても時期が接近しすぎているのがおかしい。おまけに新聞広告には「『四日封切』、『若草物語 矢田津世子譯編 少女畫報社発行(中略)全国書店にあり』との記述」が見られるという。つまり映画と小説をまとめてPRしているのだ。
 レファレンスでは「それ以上の詳細は判明しませんでした」と指摘するにとどめているが、ここから一つの想像ができる。つまりこの時、「若草物語」を使って「メディアミックス」的な展開がなされたのではないか、という想像だ。実際この書籍版「若草物語」の表紙"http://kikoubon.com/yada.html"にはまさに映画の画像が使われており、その可能性は高い。
 他に出版社名も注目点だ。少女畫報社の名前で国会図書館デジタルコレクションを調べてみると、若草物語を出した前後に「ターキー自画像」"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212199"や「ターキー舞台日記 : 続ターキー自画像」"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1234507"なる書物を出版している。水の江瀧子"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E3%81%AE%E6%B1%9F%E7%80%A7%E5%AD%90"といえば30年代の有名な女優であり、少女畫報社も芸能界と縁のあった出版社なのだろう。そうした会社と映画の配給元が手を組む可能性は十分に考えられる。
 もう一つの状況証拠は、同じ1934年10月にビクターから発売されたレコード「若草物語」"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1322427"の存在だ。メディアミックスの一環として映画、小説に合わせ、やはり当時の先端メディアであったレコードも使ったと考えても不思議はない。おまけに歌手の小林千代子"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%8D%83%E4%BB%A3%E5%AD%90"は松竹楽劇部で水の江滝子の相手役も務めていたそうで、ここでもまた接点が出てくる。
 さらに雑誌「少女倶楽部」の同年11月号"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1780193"にも若草物語が載っている。残念ながら目次"http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/24263944.html"はともかく中身は分からない。ただ北村壽夫が文章を、椛島勝一が挿絵を手掛けたことはわかる。おそらくあらすじレベルにとどまる紹介に過ぎなかったと思われるが、主なターゲット層である若い女性向け雑誌にも「若草物語」を売り込んでいた様子が窺える。

 つまり「若草物語」は映画の配給に合わせて大々的なメディアミックスを展開しようとした興行主が、そのメディアミックスをつなげるキーワードとして編み出したものではないか、と想像できるのだ。これまで使われた訳語である「小婦人」や「四姉妹」といった地味なフレーズでは大衆受けは難しい。何か気の利いた題名を、Frozenを「アナと雪の女王」にするくらい大胆でもいいから、人々に強く印象付ける言葉を。そうやってひねり出したのが「若草物語」なのではなかろうか。
 具体的に誰が考えたかは知らないが(吉屋信子"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B1%8B%E4%BF%A1%E5%AD%90"が選んだとの説がある)、その人物が優秀なコピーライターであったことは間違いない。何しろ今やオルコットの小説は日本では「若草物語」として完全に定着している。原題を聞かされてもピンと来ない人の方が多いくらいだろう。1930年代のメディアミックスがどこまで成功したのかは分からないが、後世への影響まで踏まえるならインパクトは大きかった。でも当時「原作厨」がいたら、相当に叩かれていただろうな。

 あと一つ、原作について。Little Womenの初版"https://archive.org/details/littlewomenormeg00alcoiala"が発行されたのは1868年。何でも冒頭の挿絵は著者オルコット自身が描いたものらしい。この小説の最初は四姉妹の会話で始まるのだが、その中に"as if pa was a pickle-bottle"というフレーズがある(p9)。
 ところがこのフレーズ、Project Gutenbergに掲載されているもの"http://www.gutenberg.org/ebooks/514"では"as if Papa was a pickle bottle"となっている。paがPapaに変わっているのだ。なぜだろう。
 Little Womenの他の版を見ると、1872年出版の本("https://archive.org/details/littlewomenorme01alcogoog" p2)、1879年出版本("https://archive.org/details/littlewomenormeg01alco_0" p9)のいずれもpaのままだったのが、1887年出版本"https://archive.org/details/littlewomenormeg00alco3"でpapaになっている(p8)。おそらくこの時点で本文の修正がなされたのだろう。
 オルコットは1888年に死去"https://en.wikipedia.org/wiki/Louisa_May_Alcott"。それ以前にpaがpapaになっているのだから、この修正は著者の意図によるものだろう。Papaの省略形としてpaという言い方がある"http://www.thefreedictionary.com/pa"にもかかわらず、敢えて直したということは、著者なりにこの表現にこだわりがあったのかもしれない。どんなこだわりなのかはさっぱり分からないんだが。
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