いつものようにLützowのThe Hussite Warsを利用して事前の流れを確認しておこう。クトナー・ホラ(ドイツ名はクッテンベルク)の銀山では前年に多くのフス派の虐殺が行われたことが知られている(The Hussite Wars, p17-18)。銀山の鉱夫は多くがドイツ系住民で、彼らはジギスムント率いる十字軍を大歓迎した(p41)。
翌日、両者の間で降伏について交渉が行われた。25日、クトナー・ホラ市民はフス派軍の前に現れて跪き、前年の虐殺について許しを乞うた。ジェリフスキーが二度と罪を犯さぬよう述べたうえで彼らに平和と慈悲を認め、フス派でないものは町を去り、クトナー・ホラはフス派の手に落ちた(p90-91)。
クトナー・ホラに対する十字軍の圧力が強まったのは1421年の年末が近づいてからだ。モラヴィアを押さえたジギスムントの兵がクトナー・ホラに向けて接近してきたことを知ったフス派側のプラハ兵はクトナー・ホラ南東のチャースラフから撤退し、ジシュカに救援を求めた。ジシュカは12月1日にプラハに到着。彼はそこで1週間を費やして関係者との調整を行い、8日にクトナー・ホラへと出発した。
だがクトナー・ホラにはまだ多数の反フス派が残っていた。そうした事情を把握していたジシュカはすぐにチャースラフへ向かってそこに陣地を構築し、守備隊を残した。おそらくジギスムントの軍をそこで足止めすることを期待していたのだろう。
だがジギスムントはチャースラフにあるフス派陣地を迂回して19日にはクトナー・ホラ前面に到着。ジシュカはモラヴィアの同盟軍とともに駆けつける。Lützowによるとこのモラヴィア軍は「イタリア傭兵condottiereと半分野蛮人のハンガリー兵による残虐行為への復讐に燃えていた」(p105)とあり、この辺が漫画にも採用されたのかもしれない。
12月21日、ジシュカは城壁の外で戦う決断をし、彼の兵たちはコウジム門(おそらく西門)を出てそこから250歩dva honyほどの距離に布陣した(p106n)。そこで車陣を敷いたフス派軍は、Toman"
https://archive.org/details/husitskvlecn00toma"曰く有利な陣地にも恵まれ、ジギスムント軍の攻撃を撃退する。ヴァヴリネツの描写するラーガーの話はおそらくこの場面だろう。だがラーガーへの攻撃は失敗したものの、十字軍はフス派と町との間を遮断することに成功する。
ジシュカが城壁を利用せず町の外に布陣したのは、おそらく町中にいる反フス派を危険視していたからだろう。この懸念は的中した。戦闘の間にクトナー・ホラ内部に残っていた反フス派がコリン門(北門)を開け放ち、町を逃げ出していた鉱夫らと帝国軍が城壁内になだれ込んだ。再び虐殺が行われ、拠点を失ったジシュカは一気に窮地に陥った。彼は陣地の放棄を決断する。
ジシュカ相手に勝利したジギスムントだったが、彼の成功は短期間に終わった。冬になりしばらくは敵も冬営に入ると油断した十字軍に対し、ジシュカはトゥルノフやイチンからの増援を得て早くも1422年1月6日に再びクトナー・ホラへの進軍を開始。途中のネボヴィディでハンガリー傭兵に殺された少女の死体を見つけ、復讐を決断したという話がScriptorum rerum bohemicarum, Tomus III."
https://archive.org/details/scriptorumrerum02unkngoog"のp48に記されているらしい(The Hussite Wars, p108n)。
退却はすぐ敗走になった。8日、ピーポはハブリの村で後衛戦闘を行おうとしたが、ハンガリー騎兵は戦闘を拒み全力で逃げ出した。ネメッキー・ブロト(現ハブリーチクーフ・ブロト)で食い止めようとした試みも、ジギスムント自身がこの町に入ることを拒否したため失敗に終わった。9日夜にはこの町もフス派の攻撃を受け降伏した。ハンガリー騎兵の一部は敗走中に凍った川を渡ろうとし、その氷が割れて溺死した。十字軍の損害は1万2000人に及んだという(p108-110)。
以上がクトナー・ホラ戦役の経緯だ。12月のクトナー・ホラの戦いだけ取り上げれば実はジシュカの敗北であり、その後の逆襲によって全体としてはフス派の勝利になっている。だがこれを漫画で描写するのは結構難しいんじゃなかろうか。主力決戦では負けており、その後の逆襲はむしろ十字軍側の油断とか自滅に近い状態。物語的には盛り上がらないことおびただしい。どう調理して読み応えのある「お話」に仕上げるか、腕の見せ所だろう。
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