クトナー・ホラ戦役 ネタバレ

 久しぶりにフス戦争漫画"http://seiga.nicovideo.jp/comic/6131"について(もちろんネタバレ全開で)書くとしよう。長々と掲載していたアダム派の話がようやく終わっていよいよクトナー・ホラ戦役"https://cs.wikipedia.org/wiki/Bitva_u_Kutn%C3%A9_Hory"へと舞台が移ってきた。
 なお、この戦役こそ車陣と火器の併用(ラーガー)が明らかに確認できる最初の戦いであることは以前に指摘した"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54358105.html"ので、その件については省略する。この貴重な記述が含まれるブレゾヴァのヴァヴリネツ"http://cs.wikipedia.org/wiki/Vav%C5%99inec_z_B%C5%99ezov%C3%A9"の「フス派年代記」"http://books.google.co.jp/books?id=esu4AAAAIAAJ"は、この戦役の途中で記述が終わっている。LützowのThe Hussite Wars"https://archive.org/details/hussitewars00lt"によれば著者の急死が原因ではないかという(p104n)。

 実は漫画の方は冒頭から既に史実と大きくずれている。前哨戦でフス派の「クトナー・ホラ包囲部隊が壊滅」"http://blog.livedoor.jp/koichi0024/archives/55630993.html"し、その後でジシュカの到着に際してカトリック側が町を放棄したという展開になっているが、Lützowによればこの1421年の春以降、クトナー・ホラはずっとフス派が確保し続けていた。
 いつものようにLützowのThe Hussite Warsを利用して事前の流れを確認しておこう。クトナー・ホラ(ドイツ名はクッテンベルク)の銀山では前年に多くのフス派の虐殺が行われたことが知られている(The Hussite Wars, p17-18)。銀山の鉱夫は多くがドイツ系住民で、彼らはジギスムント率いる十字軍を大歓迎した(p41)。
 だが十字軍が撃退された後で、ボヘミア内の状況は大きく変貌。フス派は1421年の前半にいくつもの町を取り返したのだが、その中にはクトナー・ホラも含まれていた。4月23日、フス派の軍勢がコリンからクトナー・ホラに接近してきた時、ミケシュ・ジヴォーチェク"https://cs.wikipedia.org/wiki/Mike%C5%A1_Div%C5%AF%C4%8Dek_z_Jemni%C5%A1t%C4%9B"率いるクトナー・ホラ市民が迎撃に現れたが、彼らはフス派の姿を見てあっさり逃げ出した。ちなみにジヴォーチェクはかつてヤン・フスの友人でありながら後にカトリック側に転じた人物であり、チェコ語のサイトではしばしば裏切者と書かれている。
 翌日、両者の間で降伏について交渉が行われた。25日、クトナー・ホラ市民はフス派軍の前に現れて跪き、前年の虐殺について許しを乞うた。ジェリフスキーが二度と罪を犯さぬよう述べたうえで彼らに平和と慈悲を認め、フス派でないものは町を去り、クトナー・ホラはフス派の手に落ちた(p90-91)。
 フス派による寛容な対応はこの町以外にも影響を及ぼした。代表例がヴァルテンベルクのチェニェク"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54790954.html"で、前年にフス派からジギスムント陣営へと身を投じていた彼は、クトナー・ホラ陥落をきっかけに再びウトラキスト側に転身する。フラドチャニーにあるプラハ城も、クトナー・ホラ陥落後の5月から城を明け渡す交渉を始めた。

 クトナー・ホラに対する十字軍の圧力が強まったのは1421年の年末が近づいてからだ。モラヴィアを押さえたジギスムントの兵がクトナー・ホラに向けて接近してきたことを知ったフス派側のプラハ兵はクトナー・ホラ南東のチャースラフから撤退し、ジシュカに救援を求めた。ジシュカは12月1日にプラハに到着。彼はそこで1週間を費やして関係者との調整を行い、8日にクトナー・ホラへと出発した。
 だがクトナー・ホラにはまだ多数の反フス派が残っていた。そうした事情を把握していたジシュカはすぐにチャースラフへ向かってそこに陣地を構築し、守備隊を残した。おそらくジギスムントの軍をそこで足止めすることを期待していたのだろう。
 またこの時に彼は、親フス派のモラヴィア貴族であるヴォルトシュテイナのハシェク"https://cs.wikipedia.org/wiki/Ha%C5%A1ek_z_Vald%C5%A1tejna"やクラヴァズのヴァーツラフ"http://hussitesriding.blog.cz/galerie/husitske-osobnosti-nejvetsi-databaze-hejtmanu-rytiru-duchovnich-kazatelu/obrazek/61587530"ら、及びリティツェ城から来たクンシュタットのヴィクトリン=ボチェク"https://cs.wikipedia.org/wiki/Viktor%C3%ADn_Bo%C4%8Dek_z_Kun%C5%A1t%C3%A1tu_a_Pod%C4%9Bbrad"らの増援を受けている(p104-105)。
 だがジギスムントはチャースラフにあるフス派陣地を迂回して19日にはクトナー・ホラ前面に到着。ジシュカはモラヴィアの同盟軍とともに駆けつける。Lützowによるとこのモラヴィア軍は「イタリア傭兵condottiereと半分野蛮人のハンガリー兵による残虐行為への復讐に燃えていた」(p105)とあり、この辺が漫画にも採用されたのかもしれない。
 12月21日、ジシュカは城壁の外で戦う決断をし、彼の兵たちはコウジム門(おそらく西門)を出てそこから250歩dva honyほどの距離に布陣した(p106n)。そこで車陣を敷いたフス派軍は、Toman"https://archive.org/details/husitskvlecn00toma"曰く有利な陣地にも恵まれ、ジギスムント軍の攻撃を撃退する。ヴァヴリネツの描写するラーガーの話はおそらくこの場面だろう。だがラーガーへの攻撃は失敗したものの、十字軍はフス派と町との間を遮断することに成功する。
 ジシュカが城壁を利用せず町の外に布陣したのは、おそらく町中にいる反フス派を危険視していたからだろう。この懸念は的中した。戦闘の間にクトナー・ホラ内部に残っていた反フス派がコリン門(北門)を開け放ち、町を逃げ出していた鉱夫らと帝国軍が城壁内になだれ込んだ。再び虐殺が行われ、拠点を失ったジシュカは一気に窮地に陥った。彼は陣地の放棄を決断する。
 22日夜明け、ジシュカは敵戦線を攻撃してカシクの丘に布陣し直す。そして同日真夜中、彼は敵戦線に砲撃を加えて包囲網を突破。23日にはどうにかコリンに到着した(p106-107)。このあたりの経緯は既にヴァヴリネツの描写外の出来事のようで、詳細は分からない。ただEpitome historica rerum Bohemicarum"https://books.google.co.jp/books?id=bBxJAAAAcAAJ"には、フス派軍がジギスムントの宿営地を突破することで比較的緩やかな戦闘で済んだと書かれている場面がある(p450)。こちら"http://myweb.tiscali.co.uk/matthaywood/main/Hussite_Battles_and_Significant_events.htm"ではフス派が「ジギスムント個人の宿営地近くで突破したため、指揮系統が混乱したのではないか」と推測している。

 ジシュカ相手に勝利したジギスムントだったが、彼の成功は短期間に終わった。冬になりしばらくは敵も冬営に入ると油断した十字軍に対し、ジシュカはトゥルノフやイチンからの増援を得て早くも1422年1月6日に再びクトナー・ホラへの進軍を開始。途中のネボヴィディでハンガリー傭兵に殺された少女の死体を見つけ、復讐を決断したという話がScriptorum rerum bohemicarum, Tomus III."https://archive.org/details/scriptorumrerum02unkngoog"のp48に記されているらしい(The Hussite Wars, p108n)。
 この時、ジギスムントに退却を進言したのが漫画にも登場している傭兵ピーポ"https://hu.wikipedia.org/wiki/Ozorai_Pip%C3%B3"だ。ヴィンデッケの書いたドイツ語の史書("https://books.google.co.jp/books?id=itLUAAAAMAAJ" p139)には「モラヴィアとボヘミアから来た多くの臆病者が自陣営にいたため国王は退却した」と書かれているという。敗北の非難対象となったのはピーポだった。
 退却はすぐ敗走になった。8日、ピーポはハブリの村で後衛戦闘を行おうとしたが、ハンガリー騎兵は戦闘を拒み全力で逃げ出した。ネメッキー・ブロト(現ハブリーチクーフ・ブロト)で食い止めようとした試みも、ジギスムント自身がこの町に入ることを拒否したため失敗に終わった。9日夜にはこの町もフス派の攻撃を受け降伏した。ハンガリー騎兵の一部は敗走中に凍った川を渡ろうとし、その氷が割れて溺死した。十字軍の損害は1万2000人に及んだという(p108-110)。

 以上がクトナー・ホラ戦役の経緯だ。12月のクトナー・ホラの戦いだけ取り上げれば実はジシュカの敗北であり、その後の逆襲によって全体としてはフス派の勝利になっている。だがこれを漫画で描写するのは結構難しいんじゃなかろうか。主力決戦では負けており、その後の逆襲はむしろ十字軍側の油断とか自滅に近い状態。物語的には盛り上がらないことおびただしい。どう調理して読み応えのある「お話」に仕上げるか、腕の見せ所だろう。
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