ヴァンデの共和国軍人 その15

15)クロード=フランソワ=トマ・サンド
 1756年スイスのロクルに生まれる。70年に幹部候補生としてプロイセン軍に任官。73年からはフランス軍に転じる。76年少尉、84年中尉。革命後の1792年9月には大尉となり、同月中にさらに中佐へと昇進する。
 1793年4月27日、大佐としてラ=ロシェル沿岸軍に配属される。Sixによれば6月9日に国民公会へ呼ばれたとあるが詳細は不明。12日にサンドはサピノー率いる王党派軍の一部をエルムノーで攻撃し、これを押し返すのに成功する。その後も小競り合いが続いたが、全体に共和国軍が優勢を維持していた。
 28日、ロワラン、サピノーらが率いる8000人の王党派軍はリューソンのサンドに対する本格的な攻撃を行う。最初の衝突で共和国軍の左翼が撃退されたのを見て敗北したと思い込んだサンドは全軍に退却を命じた。しかし一部の部下はこの臆病な命令に反して方陣を敷き王党派軍に抵抗を続けたという(Deniau)。共和国軍の頑強な抵抗の前に王党派軍は退却を強いられる。
 リューソンの戦闘で拙い指揮を取ったサンドは7月3日に解任され、11日にはパリのアベイ監獄に収監される。革命裁判所にかけられるが、8月28日には訴追は取り下げとなった。しかし元の職務に復帰することはできなかったようで、11月3日には健康を理由に辞任を申し出ている。なお、こちらのサイト"http://www.napoleon-series.org/military/listings/c_other.html"には8月14日のリューソンの戦いにサンドが参加していたとあるが、その頃彼はパリにいた筈なのでおそらく誤りであろう。
 1794年12月にクレベール麾下で軍務に復帰。95年には准将となり、ラン=エ=モーゼル軍に所属。96年1月、不法行為や使い込みその他を理由に職務を停止され、軍法会議で3ヶ月の禁固と解雇を命じられる。同年9月にスペイン軍への転属を許可された。その後、1804年に英国のジャージー島へ赴任したことなどが分かっているが、詳細は不明。

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