不敗の(?)グーヴィオン=サン=シール

 ナポレオンの元帥たちの中で、現代において一番有能だと思われているのがダヴーであることはよく知られている。ただ、海外では他にも高い評価を得ている元帥がいるようで、その一人がグーヴィオン=サン=シールだ。
 かなりマニアック(らしい)な回想録を残し、Phippsの本などで好意的に紹介されているグーヴィオン=サン=シールだが、中でも目立つのは英語版のWikipedia"http://en.wikipedia.org/wiki/Laurent%2C_Marquis_de_Gouvion_Saint-Cyr"における以下の文章だろう。

「グーヴィオン=サン=シールが決して戦いに負けることがなかった点は記録するに値する」

 誰が言い始めたのか知らないがなぜか日本でのみ普及している言い回し「不敗のダヴー」ではなく、「不敗のグーヴィオン=サン=シール」という訳だ。ダヴーについては(特に独立した作戦指揮の面では)言われるほどの実績がないことは以前に週記で指摘した。ではグーヴィオン=サン=シールはどうだろうか。
 まず、Digby Smithのまとめた"Napoleonic Wars Data Book"で、グーヴィオン=サン=シールが指揮した戦闘の結果を調べてみた。それによると彼が部隊を率いて勝利したのは以下の戦闘。

 1799年10月24日 ノヴィ(対オーストリア)
 1799年11月6日 ノヴィ(対オーストリア)
 1799年11月16日 トリーリャ(対オーストリア)
 1800年5月9日 ビベラッハ(対オーストリア)
 1808年11月7日―12月5日 ローザス(対スペイン)
 1808年12月16日 カルデデュー(対スペイン)
 1808年12月21日 モリンス=デル=レイ(対スペイン)
 1809年2月19日 サン=マジン(対スペイン)
 1809年2月25日 ヴァルス(対スペイン)
 1809年6月6日―12月10日 ジローナ(対スペイン)

 要塞に対する包囲戦を含めて10勝していることになるが、なぜか1812年の「ポロツクの戦い」が入っていない。会戦が始まった時点ではウディノが指揮を取っていたためである。一方、グーヴィオン=サン=シールが負けた戦もある。

 1813年8月22日 ピルナ(対ロシア)
 1813年10月13日―11月11日 ドレスデン(対オーストリア・ロシア)

 もちろんポロツクが載っていない点からも分かるように、Smithの本はあくまで彼の見方を示したものにすぎない。この判断に対して異論を持つ向きも存在するだろう(たとえばピルナは本格的会戦の前哨戦でしかない、とか、ドレスデンはナポレオンの判断ミスによる敗北でグーヴィオン=サン=シールのせいではない、とか)。
 では、1796年10月19日にエルツ河畔で行われた戦闘はどうだろうか。カール大公の本によると、この戦闘でグーヴィオン=サン=シールはかなり痛い目に遭ったという。

「同時にサン=シールはエルツ峡谷のブライバッハにいるナウエンドルフを攻撃した。最初ナウエンドルフは彼らを撃退したが、ニーダーヴィンデンへ前進してきた縦隊に左翼を脅かされるに至り陣地を失い始めた。
 その間、ジーグラウにいたオーストリア軍分遣隊がコルナウ高地を経てフランス軍の側面と背後に襲い掛かった。というのも彼ら[フランス軍]はブライバッハ街道を前進している間に、左側面を掩護し彼らが麓を行軍している森に覆われた山地を占領することを無視していたためである。彼らの将軍はオーストリア軍の側面へ機動することに集中するあまり彼自身もまた側面を攻撃される可能性があることを忘れていた。
 オーストリア兵がコルナウ高地に姿を現すや否やフランス軍はブライバッハへの攻撃と、グタッハ峡谷、コルナウ、そしてヴァルトキルヒの全てを放棄することを強いられた。これらの地点は[コルナウ]高地に見下ろされており、オーストリア砲兵の砲撃下に置かれたためだ。
 ナウエンドルフはフランス軍を激しく追撃しカンデルベルクから撃退された兵を増援した。彼らは取って返して突撃しヴァルトキルヒ背後の峡谷にいるフランス軍を攻撃した。サン=シールは果敢に守ったが、ナウエンドルフは彼らの側面を衝き退路を脅かすため歩兵1個大隊と騎兵1個大隊をブッフホルツに分遣した。
 歩兵2個大隊が小さいヴァルトキルヒ平地と砲兵及び散兵の群れに守られながらフランス軍に対し正面から銃剣攻撃を行った。オーストリア軍の攻撃は完全に成功した。フランス軍は退却し、ランゲンデンツリンゲンの森まで絶えず追撃に悩まされ山に迷い込んだ者と捕虜になった者を合わせ多くの兵を失った」

 カール大公はグーヴィオン=サン=シールの敵だったから評価が辛いのかもしれない。Phippsによるとこの戦闘は次のようになる。

「平地にいる敵をサン=シールに一掃させるのがフランス軍指揮官[モロー]の意図だっとジョミニは考えているようだが、実際にはモローは18日に攻撃を受けていくつかの陣地を失った右側面を心配していた。そこで彼は右翼を支援するため分遣隊を送るようサン=シールに命じ、この助けによってフェリーノは彼の陣を回復した。その間エルツ河左岸のサン=シール師団は河向こうへ押し戻され、ヴァルトキルヒは敵によって占領された」

 責任はモローにあったと言いたいのが如実に分かる文章だが、それでもグーヴィオン=サン=シールが敵に「押し戻された」ことは認めている。カール大公の言い分を信じるなら、その敗北はグーヴィオン=サン=シール自身にも責任があったことになる。
 この時代に限らず、戦闘というものは安易に勝ち負けを判断しづらいものがしばしばある。そうした事情を全く勘案することなく「誰某は不敗だった」「誰某は生涯勝ち続けた」と言っても、その言葉自体には何の意味もない。単に伝説を作る一助となるだけではなかろうか。

スポンサーサイト



コメント

No title

シェヘラザード
サン=シールはとても興味深い人なのですが、ナポレオニック関連の本にはあまり出てきませんね。「将帥ランク付け」談義は海外でも日本でもおおいに盛り上がるようですが、最近では個々の戦闘経過を具体的に検証していくほうが面白いのではないかと思い始めました。「不敗」というダヴーの定冠詞(?)が定着したのも、案外、最近のことではないかと思います。ゲームの隆盛とも関係ありそうですね。

No title

R/D
グーヴィオン=サン=シールがあまり紹介されないのは、ナポレオンとの接点が少ないことが理由だと推測しています。この時代を紹介する本は、結局のところナポレオン個人に焦点を当てているものが大半ですから、彼との接点が多い人物ほど注目を集めやすいのでしょう。
非公開コメント

トラックバック