カスティリオーネ戦役では8月4日、ボナパルトの司令部の目の前にいきなりオーストリア軍が現れるという出来事があった。オーストリア軍はフランス軍に対して降伏を要求するが、数の少ないボナパルトははったりをかまし、むしろそちらこと即座に降伏すべきだと主張してオーストリア軍を捕虜にしたとされる。
この出来事があったのはロナート。ヴルムザーの主力はまだそこまで到達しておらず、過去にロナートへ来ていたクォスダノヴィッチの部隊はこの日、既に退却に転じていた。そのためこの部隊についてジョミニは「前日ロナートで敗れデセンツァーノに撃退された部隊の残りだとボナパルトは判断した」としている("
https://books.google.co.jp/books?id=158FAAAAQAAJ" p327)。クォスダノヴィッチと合流しようとしたがその方面をフランス軍に遮られたため、ロナートを突破してヴルムザーとの合流を試みる途上だった、という理屈だ。
しかしオーストリア側の文献を違う話が書かれている。ジョミニの言う「前日ロナートで敗れデセンツァーノに撃退された部隊」とはオクスカイ旅団のことなのだが、4日にロナートに現れた部隊、つまりエアバッハ連隊の2個大隊及びドヴァン連隊1個大隊は、実はシュポルク旅団に所属していたという。Bonaparte vor Mantuaの第14章"
http://www.simmonsgames.com/research/authors/Hortig/BonaparteVorMantua/XIVGerman.html"には、3日時点でシュポルク指揮下にいたのは以下の部隊だったとしている。
コットリンスキー及びレーヌの2個擲弾兵大隊
ガヴァシーニ擲弾兵大隊の4個中隊
クノール大佐指揮下のエアバッハ歩兵連隊2個大隊
トラッハ少佐指揮下のドヴァン歩兵連隊1個大隊
この本が出版されたのは1903年なのでジョミニが知らないのは無理もないが、それ以前にもこの話はドイツ語文献にはいくつも出てくる。例えば1830年出版のOestreichische militäriche Zeitschriftの第5号"
https://books.google.co.jp/books?id=q7MUAAAAYAAJ"には、上記と全く同じ戦闘序列が紹介されている(p130)。というか、実際にはBonaparte vor Mantuaの著者がこの雑誌などの先行史料を参照したというべきだろう。
明白にジョミニの本が出版される以前からあった文献も存在する。Leichte Truppen: kleiner Krieg"
https://books.google.co.jp/books?id=tl1OAAAAYAAJ"。そこでは「シュポルク将軍はいくつかの擲弾兵大隊とエアバッハ連隊を後衛部隊とした」(p69)という文章がある。その後にこのエアバッハ連隊とドヴァン連隊の1個大隊がロナートで降伏したことにも触れられており(p70)、この文章を読んでいれば4日に降伏したのがどの部隊であるかは分かっただろう。
ジョミニは非常に幅広く情報を集めて本を記している。彼が当時の「現代史家」として、特に軍事史分野で優れた能力を持っていたことは疑いないだろう。だがその彼をしても細かい情報まで完全に収集しきれたわけではないことを示す一例が、この「4日に降伏した部隊」の正体に関する言及かもしれない。彼のいた時代にgoogle bookがあれば話は違っただろうけど。
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