随分前に買ったまま「積ん読」状態にあったAndrew Robertsの"Napoleon and Wellington"をようやくきちんと読んだ。で、思ったこと。まず私は歴史上の個人が「何をしたか」には興味があるが、そいつが「どんな人物か」には関心を抱けないことが改めて分かった。ナポレオンやウェリントンの個人史に関する部分は正直退屈。ウェリントンの愛人が誰だろうと、ナポレオンの親族がどこで何をしていようと、そんなことはどうでもいい。彼らが公人として「何をなした」かこそが重要だろう。
この本のテーマである「ウェリントンとナポレオンはお互いをどう評価していたか」についても、実はさして重要な問題だとは思わない。著者は一般に言われている「ウェリントンはナポレオンを高く評価しており、ナポレオンはウェリントンを低く見ていた」という解釈は一面的に過ぎると指摘。時系列を追いながら、実際に両者が互いに抱いていた認識はより複雑で、時と伴に変化していたことを立証している。その著者の結論には別に異論はないが、読み終わって「だからどうした」という感想しか浮かんでこない。彼らが互いをどう見ていたかより、彼らが具体的にどんな決断をしてどう行動したかを知る方が、歴史に与えた影響をきちんと測れるだろう。生産的でない行為に労力を費やしているように思えてならない。
もう一つの問題が、細部の記述。ワーテルロー戦役に関する部分などを読んでも、「よく言われているが論拠不明の通説」に拠りかかっているところが多いのだ。もちろんワーテルローの戦いそのものは著者の中心的な論点ではないから適当な二次史料に頼って書いたのだろうが、読んでいていささか鼻白むのもまた事実。例えばネイがナポレオンに増援要請をしたのはラ=エイ=サントが落ちた後になっているし、英軍が2列横隊で戦っていたかのような記述がある(ワーテルローの英軍は方陣を組みやすいよう4列横隊で戦っていた)。
この手の洋書には沢山載っている参考文献についても、目を通したのかどうか疑わしい部分がある。246ページには「ウディノ元帥が1815年に奉職することを申し出たのみならず忠誠まで誓ったというナポレオンの主張は、特に悪意のあるものだ」との記述があるが、ウディノがナポレオンに仕えようと試みて失敗したという話はHoussayeがその著作で指摘している。Robertsは322ページでHoussayeの本を参考文献に上げておきながら、本文中ではその点に全く触れていないのだ。数多くある参考文献も、これでは一種の虚仮脅しにしかみえない(そういう本は多い)。
ウェリントンが記したナポレオンのロシア遠征に関する文章について記した部分にも違和感がある。Robertsは251ページで「フランス革命は『不幸にして作戦が行われた地域の負担になる代わりに、戦争を資源たらしめるのを目的と結果とした新たな戦争システム』を導入した」というウェリントンの文章を紹介したうえで「つまり国家が全住民を動員できるという意味である」と記しているが、それは違うのではないか。ウェリントンの文章は国家総動員を意味しているというより、現地調達や現地からの各種掠奪によって戦争がもうかる事業になったことを意味していると考えた方が素直な解釈だろう。実際、ナポレオンによる戦争にそういう側面があったことは否定できない。
一方で参考になる部分もある。ナポレオンがウェリントンについてどう語っているかを調べた結果、セント=ヘレナで彼がワーテルローの戦いについてどう述べていたのかが色々と紹介されているのだ。ワーテルロー戦役について知るうえで、当事者たるナポレオンの言い分を見ることができるのは、それがどれほど「言い訳」に満ち溢れているとしても、十分に意味がある。
Robertsによれば、ナポレオンはとにかくワーテルローに関して自らの責任をひたすら転嫁しようとしたらしい。転嫁する相手は時に人間であり、時に自然現象である。そのリストには「ネイ、グルーシー、ブールモン、『右翼』、限られていた戦場の視界、『パニック』、『暗闇』、雨、彼[ナポレオン]の『疲労』、6月16日と18日のデルロンの行動、『若い幕僚士官たち』、裏切り、ヴァンデ、ヴァンダンム、モルティエ、ドルーオ、フリアン、ギュヨー」などが並んでいるそうだ。
ワーテルロー関連本にナポレオンの「言い訳」がどれほどの影響を与えているかは、上のリストを見れば一目瞭然。これはある意味当然で、当事者であるナポレオンの証言を無視したワーテルロー戦役本はありえないだろう。だが、いくら一次史料であるといっても、それを丸ごと信用するのは良くない。人間誰しも間違いや勘違いはあるし、嘘をつくこともある。ましてセント=ヘレナの証言はプロパガンダとしての色彩が強いのだから、取り扱いにはかなり注意が必要だ。
例えばネイ。実はナポレオンがネイとグルーシーに対する非難を始めたのはセント=ヘレナへ行くより前、ワーテルローの敗戦からたった3日後らしい。パリに戻った皇帝はコレンクールに向かってネイとグルーシーが命令に従うことに失敗したと指摘している。セント=ヘレナに行ってからも同じで、ワーテルロー会戦一周年となる1816年6月18日にもネイ、グルーシー、デルロンらの名を上げている。ワーテルロー会戦当日の行動だけでなく、キャトル=ブラへの攻撃を躊躇ったことや、15日にシャルルロワへの到着が遅れたことまで非難の対象になっているらしい。ネイが戦役に参加するよう命令されたのが極めて遅かったことも考えるなら、これはほとんど言いがかりだ。
病気のため参戦できなかったモルティエ、数で圧倒的な不利にあった最後の攻撃を担い負傷したフリアン、ナポレオンの命令で投入された親衛重騎兵を指揮していたギュヨーあたりになると、もう何をか言わんや。それぞれの証言について、きちんと裏付けを求める作業は欠かせないだろう。
それにしても、このへんの話を読んでいるとセント=ヘレナでのナポレオンの言い分をもっときちんと調べたくなってくる。グールゴーの本くらいは入手してみようか。やたらと高いのが困りものだが。
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