まず、いつも紹介しているこちら"
http://www.napoleon-series.org/research/bibliographic/c_frenchstaff1.html"で関連するものを探してみよう。半島戦争初期について書いている書物としては、GrassetのLa guerre d'Espagneという本があり、Gallicaで1巻"
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5767863s"、2巻"
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5771011q"、及び3巻"
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k6472756h"それぞれの閲覧が可能。しかしながら3巻の時点で紹介されているのはメディナ=デ=リオ=セコ、バイレン及び第1次サラゴサ攻囲までであり、トゥデラは対象になっていない。
明確にトゥデラを取り上げているのはBalagnyのCampagne de Napoléon en Espagneであり、2巻"
http://www.amazon.com/dp/1247325245"がずばりトゥデラを取り上げている。しかしながらgoogle bookでは閲覧が不可能"
https://books.google.co.jp/books?id=WutAAAAAYAAJ"だし、internet archiveやGallicaにはこの本は収録されていない。つまりフランス側の史料として、最も詳細な記録が期待できる文献はネット上では読めないのである。実に残念。
ただ、Balagnyの本からの引用が多い文献はある。例えばSir John Moore's Peninsular Campaign 1808-1809"
https://books.google.co.jp/books?id=GwS5BgAAQBAJ"。同書p103-107にはトゥデラの戦いに関する簡単な経緯が載っているが、脚注を見るとBalagnyが元ネタになっている部分が多数ある。
それによればスペイン側が苦戦した大きな要因は、エブロ河沿いに展開していたスペイン軍を率いる2人の指揮官、中央軍のカスタニョス(バイレンの勝者)とアラゴン方面軍のホセ・パラフォックスとの対立にあるらしい。当初、彼らは先手を取ってフランス軍に対する攻撃を行う計画を立てた。正面からカスタニョスが、フランス軍左側面に対してアラゴン方面軍が、11月18日を期して攻勢に出ることになっていたらしい。
だがアラゴン方面軍のオニール将軍は、パラフォックスからの命令がないことを理由にこの作戦を断った。その後も何度か計画が延期されているうちに、ネイ元帥の部隊がカスタニョスの背後に回り込むように移動をしてきたため、スペイン軍は攻勢計画を断念。トゥデラからタラソナに至る防衛線を敷くことになった。ところがトゥデラ付近の防衛を担当するはずのオニールらは、町を通り過ぎることで兵が散らばるのを避けるという理由で、22日夜になってもエブロ河を挟んだ対岸に残っていた。カスタニョスは「トゥデラ周辺の高地を占拠することがとても重要だと説明した」(p105)が、聞き入れられなかったようだ。
その夜、スペイン軍首脳部が開いた会議では、この期に及んでフランス軍を牽制するためパンプローナへ移動するという現実味に乏しい案が検討されたらしい。スペイン側に同行していた英国のドイルは「敵が夜明けに姿を現し、当然ながら混乱がそれに続くであろうことに一片の疑いも持っていない」(p105)との報告書を記したそうで、この時点でスペイン側の敗北は予想されていたようだ。
翌23日、オニールらの渡河開始と同時にフランス軍の偵察部隊がトゥデラに到着した。予想通り、スペイン軍が配置につく前に敵と接触する羽目に陥ったわけだ。しかもここでさらに指揮権を巡る混乱が追加された。敵の動きを見ようと近くの高地に移動したカスタニョスの下にパラフォックスの副官が現れ、パラフォックスのために騎兵の護衛を供給してほしいと要望してきた。「パラフォックス将軍はサラゴサに帰るつもりか?」とカスタニョスが問い質したのに対し、副官は「はい、確実な部隊配置を行うため、彼がそこにいることが最も必要です」と答えたのだそうだ(p106)。
まさに攻撃が始まる瞬間に指揮官が部隊を放り出して後方のサラゴサへ引き返すことになったわけだ。後に残されたアラゴン方面軍の指揮権は、この部隊についてほとんど知らないカスタニョスが引き継いだ。彼はこの部隊を使ってトゥデラ及びその南西側にある高地を守らせつつ、カスカンテにいた彼自身の部隊(ラ=ペーニャ師団)を呼び寄せようとした。だがラ=ペーニャは正面にいた1200騎の竜騎兵を「フランス歩兵8000人と騎兵2000騎」(p106)と過大に見積もり、応援に駆け付けようとしなかった。かくしてスペイン軍はこの戦いで敗北した。
「[1808年11月]23日。敵が騎兵の1部隊とともに9時頃に町の近くに到来し、大いに警報が出された。兵たちは武器を取り、全員、町[トゥデラか]の背後に向かった。11時頃、敵は攻撃を始め、オリーブの林の向こうにある平地にやって来た。彼らはいくつかの横隊と縦隊を組み、側面に多くの騎兵を伴っていた。彼らは両側面を攻撃し、よく支援されてどちらも奪取した。退却は壊走になった。フランス軍はラペーニャ師団のいたカスカンテを見張るため、右翼側の兵やにいくらかの騎兵と歩兵を配置していた。そちら[ラペーニャ]から2個連隊が平野に送り出され、滅多にない優れたふるまいを見せた」
p284-285
なおOmanの本を見ても、戦闘経過はSir John Moore's Peninsular Campaign 1808-1809とほぼ同様である。Omanはオニールが会戦前夜にエブロ対岸に残ったために布陣が遅れたこと、またカスカンテにいたラ=ペーニャがスペイン軍戦線の中央に開いた空白を本気で埋めようとしなかったことなどが敗因だと見ている。直接的な敗因となったのはそうした点にあるのだろうが、本質的にはスペイン軍の指揮系統に内在していた問題点こそがトゥデラの敗北をもたらしたと見ていいだろう。
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