トラップ士官候補生

 映画"http://www.imdb.com/title/tt0059742/"やミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」で知られるフォン=トラップ"https://en.wikipedia.org/wiki/Georg_von_Trapp"が、元オーストリア海軍軍人であったことは比較的よく知られている話だ。ちなみに彼の爵位はRitter(騎士)であり、男爵に相当するFreiherrではない"https://books.google.co.jp/books?id=gmi1AAAAIAAJ"。ただ英語に翻訳される際にしばしばbaronと翻訳されているため、日本でも例えばアニメ"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%97%E4%B8%80%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E"では男爵と呼ばれていた。
 彼が第一次大戦中に潜水艦の艦長として大活躍したこともこれまた知られている話。彼は最終的に Korvettenkapitän"https://de.wikipedia.org/wiki/Korvettenkapit%C3%A4n"、つまり少佐"https://en.wikipedia.org/wiki/Lieutenant_commander"の階級まで昇格したそうだが、映画の中ではCaptain(大佐)という肩書きになっている。爵位といい軍での階級といい、フィクションと事実がどれだけ違うかを示すわかりやすい例となっている。

 しかし彼にとって第一次大戦は初の実戦経験ではなかった。それ以前、まだ二等士官候補生("https://books.google.co.jp/books?id=b01aAAAAcAAJ" p67)として訓練航海を行っている間に、祖国からはるか遠くの東洋で最初の戦闘を体験したうえに勲章までもらっている。1900年に起きた義和団の乱での経験だ。
 当時、彼は装甲巡洋艦「カイゼリン・ウント・ケーニギン・マリア・テレジア」"https://de.wikipedia.org/wiki/SMS_Kaiserin_und_K%C3%B6nigin_Maria_Theresia"に乗っていた。同艦は、義和団の乱にあわせ他の列強とともに派遣された軍の一翼を担っていた"https://en.wikipedia.org/wiki/Eight-Nation_Alliance"。ただしオーストリア=ハンガリー帝国の戦力は少ない方から数えて2番目。到着時期も遅く、主要な戦闘にはほとんど関与しなかったそうだ。
 その中でトラップ士官候補生が参加したのは、北京でなく天津近くで行われた戦闘。北京から見て海の玄関口に当たる天津の沿岸部には、有名な大沽砲台"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%BD%E7%A0%B2%E5%8F%B0"のような海防施設があった。その中に大沽砲台の北方に位置していたPeitang(北塘)砲台というものがあり、1900年9月にこの砲台に対する攻撃が行われた。当時の新聞"http://cdnc.ucr.edu/cgi-bin/cdnc?a=d&d=LAH19000923.2.26"によれば、攻撃にあたったのはロシア、ドイツ、フランス及び「オーストリア海軍の分遣隊」。その中に騎士トラップもいたことになる。
 彼の詳細な行動については、1902年に出版されたKämpfe in China"https://archive.org/details/kmpfeinchinaei00wint"に記録されている。それによると同年8月、カイゼリン・ウント・ケーニギン・マリア・テレジアから派遣された陸戦部隊が上陸。その際にトラップはFlaggenwache(カラーガード"https://en.wikipedia.org/wiki/Color_guard"のことか)として大沽の南砦に送られたという(p424)。
 9月19日夜、北塘砲台からの砲声が聞こえてきたのを聞いた連合軍は、この方面で戦闘が行われていると判断し、砲台攻撃を決断した。トラップの率いるごく少数の部隊もこの攻撃への参加が決まった(p472)。他にこの攻撃に参加したオーストリア軍としては、シュスターシッツ"https://de.wikipedia.org/wiki/Alois_Schusterschitz"の部隊などがあったようだ(p476)。
 トラップは19日午後9時半、Peiho(白河、海河)に停泊していたドイツの砲艦「ヤグアル」から戦闘参加を命じられ、すぐに出発。10人の兵とともにHsinho(新胡)の鉄道駅へと移動した。そこの村で20日午前2時にフランス兵と話をしたものの、目的地が分からず。さらにドイツの弾薬部隊指揮官にも話を聞いて午前4時に出発したが、教えられた方角は間違っていたようで、中国軍の砲撃を受けながらかなり遠回りをする羽目に陥ったそうだ。
 ようやく集合地点であるSidaotsao(?)に到着した時には、砲台攻撃の前衛部隊は既に出発していた。トラップは強行軍で彼らの後を追い、どうにか追いつくことに成功。トラップ自身はさらに先頭へと急いで砲台の占領に同行することができた。彼の兵はそのすぐ後についてきたという(p477)。

 以上が義和団の乱におけるトラップの戦闘体験に関する記録だ。砲台攻撃に参加したのは事実のようだが、そもそも彼が率いた部隊は10人程度の極めて少数の部隊であり、おまけに最終的にはその兵すら置き去りにして1人だけで他国の部隊に同行したのが実態らしい。戦闘への寄与度という点で言えばほぼゼロと見ていいだろう。それでもオーストリア=ハンガリー軍がこの乱において軍事行動に参加したことは重要だったようで、彼は後にSilbernen Tapferkeitsmedailleなる勲章をもらった"http://www.buergergarde-salzburg.at/AS_Buergergarde_Salzburg/06__2012nnnn_Der_Gardist_Jg_32_55-67_Georg_von_Trapp.pdf"。
 海軍軍人なのに最初の戦闘が陸上での砲台攻撃だったという、何とも微妙なスタートを切ったトラップだったが、その後の活躍は既に述べた通りだ。私生活では魚雷開発者として有名なホワイトヘッドのひ孫であるアガサ・ホワイトヘッドと結婚。7人の子供をもうけたこの妻が若くして亡くなった後の話は有名である。英国人であるホワイトヘッド"https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Whitehead"がフィウメ(オーストリアの海軍兵学校があった)で仕事をし、そこでオーストリア海軍の退役士官であるルピス"https://en.wikipedia.org/wiki/Giovanni_Luppis"と出会ったのが魚雷発明のきっかけだったのだが、そのホワイトヘッドの子孫がトラップとのかかわりで今なお名前を残している点もおもしろい。
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