上のサイトでは「兵聞拙速」と「未睹巧久」が対比関係にあるとしている。実際にその通りだろう。魏武帝註孫子などは「兵聞拙速」に対して「未睹巧之久也」が無駄に長くなり、綺麗な対応関係が姿を消してしまっている。オリジナルに近い竹簡孫子の方が、対照性をシンプルかつ分かりやすく示している。でも後の時代にはそうでない「之」と「也」を加えたものの方が伝わったようだ。
以後は妄想だ。なぜ「拙速」に対する比較が「巧久」ではなく「巧之久也」になってしまったのか。もしかしたら「速」という言葉の持つニュアンスが、時間とともに変わったからではないだろうか。
上のサイトではなぜ「速」と対比関係にある言葉が「久」であって「遅」でないのかについて説明している。実は紀元前の春秋戦国時代の書物では「速」と「久」を対比させる言い回しがしばしば使われていたのだそうだ。左伝や六韜、墨子、孟子、列子といった文献がその例だ。
ここでの「速」という言葉は、日本語で言えば「速やかに」という言い回しに近い使い方と言えるだろう。つまり「短時間」「短期間」というニュアンスだ。墨子の「久者終年、速者數月」という表現などはまさにそれである。逆に言えば春秋戦国の時代には「速」という感じが「速やかに」というニュアンスで使われるのが多かったと考えられる。
もともと、紀元前に書かれた孫子の中で「スピードの速さ」を示す言葉としては「疾」の文字が使われていた。今では「疾」には病の意味もあるが、例の風林火山に出てくる「其疾如風」(竹簡孫子も同じ)のように、孫子では速度の意味で使われている。しかし紀元前後を挟んで言葉が変化し、「疾」ではなく「速」の方をスピードの速さという意味で使う事例が増えていったのだろうと想像できる。
そしてこの「速」の意味が変化していった点こそ、「未睹巧久」が「未睹巧之久也」に変わっていった理由なのではないかと思うのだ。文章として簡潔かつ綺麗なのは「未睹巧久」、だが「速」のニュアンスが変わってしまった時代において、「久」が「速」の対義語であることすぐ気づく人間はおそらく限られる。だから後半の「巧久」をくどいまで詳しく説明する必要が出てきたのだろう。そこで使われるようになったのが「巧之久也」という言い回し、だったのではなかろうか。
おそらく魏武帝が注釈をつけるより前に孫子の文章は変化していたのだと思う。それは「巧之久也」と表現することで、前半部の「拙速」は「拙く短時間」という意味であることを知らせるための工夫だったのだろう。だが残念ながら魏武帝は「拙速」を「拙くても速ければ」と解釈してしまった。そして以後、多くの人が魏武帝註孫子に引きずられるようになり、それがやがては続日本紀に出てくる「兵貴拙速、未聞巧遅」という言い回しへとつながっていったのだ。
……というのが私の妄想。本当のところは知らん。
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