速と久

 以前、こちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54842306.html"で「孫子が実際に言っているのは『故兵聞拙速。未睹巧之久也』」と書いたことがあるが、これは微妙に正確さに欠ける表現だった。きちんと述べるなら「魏武帝註孫子など一般に知られている孫子に書かれているのは」とすべきところ。本当に孫子がこう述べたかと言われると、おそらくそんなことはなかったと見られる。
 1972年に発見された銀雀山漢簡"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E9%9B%80%E5%B1%B1%E6%BC%A2%E7%B0%A1"の中に孫子の竹簡もあった。紀元前2世紀に書かれたと見られるこれらの竹簡に書かれていた文章の方が、紀元後2~3世紀の人物が注釈をつけたものよりオリジナルに近いと考えるのが普通だろう。そしてこの竹簡孫子の記述は一般に知られているものと少し違いがあるのだ。
 具体的にはこちら"http://www.cos.url.tw/sunzi/Sun-3-02.htm"に書かれている通り。竹簡の方の記述はどうやら「故兵聞拙速、未睹巧久」だったらしい。現在知られているものに比べ「之」と「也」の2文字が少ない。
 上のサイトでは「兵聞拙速」と「未睹巧久」が対比関係にあるとしている。実際にその通りだろう。魏武帝註孫子などは「兵聞拙速」に対して「未睹巧之久也」が無駄に長くなり、綺麗な対応関係が姿を消してしまっている。オリジナルに近い竹簡孫子の方が、対照性をシンプルかつ分かりやすく示している。でも後の時代にはそうでない「之」と「也」を加えたものの方が伝わったようだ。

 以後は妄想だ。なぜ「拙速」に対する比較が「巧久」ではなく「巧之久也」になってしまったのか。もしかしたら「速」という言葉の持つニュアンスが、時間とともに変わったからではないだろうか。
 上のサイトではなぜ「速」と対比関係にある言葉が「久」であって「遅」でないのかについて説明している。実は紀元前の春秋戦国時代の書物では「速」と「久」を対比させる言い回しがしばしば使われていたのだそうだ。左伝や六韜、墨子、孟子、列子といった文献がその例だ。
 ここでの「速」という言葉は、日本語で言えば「速やかに」という言い回しに近い使い方と言えるだろう。つまり「短時間」「短期間」というニュアンスだ。墨子の「久者終年、速者數月」という表現などはまさにそれである。逆に言えば春秋戦国の時代には「速」という感じが「速やかに」というニュアンスで使われるのが多かったと考えられる。
 しかし魏武帝註孫子の時代になると、「速」はむしろ「速度」や「迅速」、つまりスピードの速さを意味することが多くなったのではないだろうか。何しろ魏武帝註孫子"http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/gibu/gibu00.html"ではこのフレーズに「雖拙、有以速勝」という注釈がつけられているのだ。「拙くても速ければ勝つことがある」という説明が成り立つのは「速」がスピードである場合だろう。「拙くても短期間なら勝つ」では意味不明だ。
 三国志の時代に「速」がスピードになっていることを窺わせる証拠は他にもある。一例が郭嘉伝"http://www.project-imagine.org/search2.cgi?text=wei14-2;lang=JpCh"に出てくる「兵貴神速」。郭嘉はここで言う「速」について「不如留輜重、輕兵兼道以出、掩其不意」、つまり輜重を置いて軽兵を押し出して敵の不意を衝けと説明している。この「速」が短期間という意味でなく、スピードであることは明白だろう。彼らにとって「速」は即ちスピード、だったのではないだろうか。
 もともと、紀元前に書かれた孫子の中で「スピードの速さ」を示す言葉としては「疾」の文字が使われていた。今では「疾」には病の意味もあるが、例の風林火山に出てくる「其疾如風」(竹簡孫子も同じ)のように、孫子では速度の意味で使われている。しかし紀元前後を挟んで言葉が変化し、「疾」ではなく「速」の方をスピードの速さという意味で使う事例が増えていったのだろうと想像できる。
 そしてこの「速」の意味が変化していった点こそ、「未睹巧久」が「未睹巧之久也」に変わっていった理由なのではないかと思うのだ。文章として簡潔かつ綺麗なのは「未睹巧久」、だが「速」のニュアンスが変わってしまった時代において、「久」が「速」の対義語であることすぐ気づく人間はおそらく限られる。だから後半の「巧久」をくどいまで詳しく説明する必要が出てきたのだろう。そこで使われるようになったのが「巧之久也」という言い回し、だったのではなかろうか。
 おそらく魏武帝が注釈をつけるより前に孫子の文章は変化していたのだと思う。それは「巧之久也」と表現することで、前半部の「拙速」は「拙く短時間」という意味であることを知らせるための工夫だったのだろう。だが残念ながら魏武帝は「拙速」を「拙くても速ければ」と解釈してしまった。そして以後、多くの人が魏武帝註孫子に引きずられるようになり、それがやがては続日本紀に出てくる「兵貴拙速、未聞巧遅」という言い回しへとつながっていったのだ。

 ……というのが私の妄想。本当のところは知らん。
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