バイレン その後

 バイレンの戦いが行われた19日の午前1時半頃、ラ=カロリーナにいるヴェデル将軍のところにデュフール将軍の部隊が合流した("https://archive.org/details/legnraldupontune02tite" p491)。サンタ=エレナから11キロメートルの距離を夜間に歩いてきたので、おそらく4時間強を要したと見られる。つまりデュフールがサンタ=エレナを出発したのは18日の午後9時くらいだ。
 ヴェデルは前日にデュフール宛に記した命令の中でいったん「サンタ=エレナを真夜中に出発し、同[19]日中にグアロマンに来て布陣せよ」と命じた後、敵がリナレスを占拠しているとの情報を得て「我々はここ[ラ=カロリーナ]または向かうことになっているグアロマンで合流しよう。合流後に活動できるよう数時間の休憩を取るため、そなたがより早い時間に出発することを望む」(p485-486)と書いている。デュフールの出発はこれに従ったものかもしれない。
 18日夕方にはバイレンにスペイン軍がいることが分かっていたのだから、ヴェデルはデュフールに対してもっと早く出発するよう命じることもできただろう。ただしラ=カロリーナからその命令を運んだ伝令がサンタ=エレナに到着するまでにかかる時間(1時間強)と、命令を受け取ったデュフールが出発の準備に要する時間を考えるなら、前倒しできたとしても1~2時間といったところ。過去に伝令が何度も巻き込まれてきたトラブルを考えるなら、そうした命令を出すメリットは乏しいと考える人がいたとしてもおかしくはない。
 デュフールの部隊に休息を与えたうえで、ヴェデルはラ=カロリーナを出発した。出発時刻については午前3時から午前5時頃まで色々な意見があるが、Titeuxは午前4時だと想定している(p491)。彼らの耳にはバイレンでの砲声が届いていたようで、ヴェデルはグアロマンに到着する前にルフランク(デュフールからゴベール師団の指揮を引き継いでいた)に対し「デュポン将軍がバイレンで攻撃されているようだ」と記した手紙を書いている。

 だが砲声が聞こえていたにも関わらず、ヴェデルの行軍は遅かったという証言が多数ある。彼らがグアロマンに到着したのはようやく正午になってから(p491)。ラ=カロリーナとグアロマンの間は現代の地図で14キロメートルであり、時速2.5キロメートルでも5~6時間で到着できる。出発が最も遅い午前5時だったとしても正午ではなく午前中に到着できる計算だ。
 何があったのか。色々な証言が残っている。フランソワ大尉によれば部隊はグアロマンで4時間も休息し、家畜を絞めて食料を得たうえで午後2時に出発したことになる。別の目撃者も兵士たちが家畜を追いかける場面があったことに触れ、士官たちが止めようとしたのに将軍がそれを許し、結果的に2時間以上を浪費したと書いている(p492)。ティエボー中尉もヴェデルがグアロマンで数時間の休息を取ったことを指摘している。一方のヴェデルや兵の疲労や車両のトラブルが時間のかかった要因だとしている(p493)。そして、いずれの指摘もおそらくは会戦後に書かれたものである。
 そうした「後知恵」の入り込む余地がある史料ではなく、事態が進行中の時点で書かれたものを見るとどうなるか。グアロマンに到着したヴェデルがデュポンとルフランクに宛てて書いた手紙が、おそらくそうした条件を満たすものだ。そこには興味深いことが書かれている。
 デュポン宛の手紙で、ヴェデルはまず朝にラ=カロリーナを出発したこと、グアロマンで1時間の休息を取るつもりであることを表明する。また午前4時から砲声が聞こえていたことも記している。そしてその後に「私がグアロマンに到着した時、砲声は止みました」(p494)と書いているのだ。
 前回書いたようにフランス軍の最後の攻撃が行われたのは正午過ぎ、攻撃が失敗し、デュポンが休戦の使者を送ったのは午後1時頃だ。Titeuxがヴェデルのグアロマン到着時刻を正午としているのは、この時間の中で最も早いタイミングを取り上げたのだろう(p495n)が、実際はもう少し遅かったかもしれない。いずれにせよ重要なのは、ヴェデル師団がグアロマンで休息している時には既にバイレンの戦いが終わっていた可能性があるってことだ。
 ただし戦闘が終わったかどうかはこの時点でヴェデルには分からなかった。そのため彼は同日夕にはバイレンでデュポンと合流するつもりだと伝えている。またルフランクへの手紙でもバイレンへ向かうつもりであること、そして「カヴロワ将軍は私の師団の動きに追随する」(p495)ことも述べている。どうやらカヴロワはこの時までずっとグアロマンで待機していたようだ。
 グアロマンとバイレン東方の間は10キロメートル強ある。時速2.5キロメートルよりも早く時速3キロメートルで移動したとして、3時間強の時間がかかる計算だ。休まず進んだとしても到着は午後3時過ぎ、時速4キロメートルの騎兵のみを先行させたとしてやはり午後2時過ぎになり、いずれにせよ戦闘には間に合わない。だがTiteuxはヴェデルのゆっくりとした行動に反対していた(と戦後に主張している)将軍たちの証言を紹介し、「かくしてヴェデル将軍は、デュポン将軍が剣を手に親衛水兵の先頭に立って最後の戦闘お行っている時に、グアロマンにとどまっていた」(p497)と結論づけている。実際にはヴェデルがグアロマンにいた時間は、おそらくフランス軍が休戦を決めて使者を送り出した時間帯であろう。
 結局ヴェデルは午後2時頃にグアロマンを出発した。リナレス方面を監視するためルフランクの部隊がグアロマンに残され、ヴェデル師団(含むカヴロワ)は午後5時頃にバイレン東方の高地に監視のため残されたスペイン軍部隊と遭遇する(p497)。

 一方、正午過ぎにスペイン軍の陣営に送られたヴィルトレ大尉はレディンクに会って休戦を申し出た。彼はそれを決める権限はカスタニョスにしかないと告げた。午後2時頃、アンドゥハルから追撃を続けていたラ=ペーニャ師団がフランス軍の背後、ルンブラルに到着し、レディンクらにそのことを伝えるため4発の砲声を放った(p481-482)。デュポン自身がどう考えていたかはともかく、レディンクはこの休戦がフランス軍とスペイン軍全てに適用されるものと解釈しており、ラ=ペーニャにも戦闘中止を求めた。これにより、彼はいずれ背後から来るであろうヴェデルの脅威を排除することに成功した。
 フランス軍がアンドゥハルを撤収したことに気づいたスペイン軍が19日午前8時から追撃を始めたことは既に述べた。だがスペイン軍のうち追撃を担ったのはラ=ペーニャの予備師団だけであり、ジョーンズの第3師団は司令官カスタニョスとともにアンドゥハルに残った。ルンブラルに到着したラ=ペーニャに対し、フランス軍は休戦が実施されていることを伝えた。レディンクの下に確認の使者を送ったラ=ペーニャは、午後2時半にレディンクの手紙を受け取って攻撃を中断した。フランス軍だけでなくスペイン軍の増援も会戦には間に合わなかったのだ(p482-483)。
 レディンクとヴィルトレの交渉は2時間続いたが、カスタニョスが戦場近くに来ていないことが分かった時点でヴィルトレがスペイン軍の大佐とともにアンドゥハルの司令部まで向かうことが決まった。午後8時、ヴィルトレはアンドゥハルに到着し、カスタニョスと会った。ジョーンズ師団はこの夜のうちにアンドゥハルを出発し、翌朝にはルンブラルのラ=ペーニャと合流した(p484)。
 こうした休戦交渉が進んでいる間、最後の小競り合いがバイレン東方で生じた。午後5時、ようやく到着したヴェデルはポアンソ将軍に街道両側の高地にいる敵を攻撃するよう命じる。フランス軍が準備をしている間にスペイン軍の使者が来て、休戦が結ばれたことを伝えた。ニセ情報ではないかと疑ったヴェデルは副官を確認に送り出すが、15分以内に彼が戻らなければ戦闘を始めると主張した。この副官は休戦確認のためデュポン将軍のところまで移動したためになかなか戻ってこられず、30分後にヴェデルは攻撃を開始した(p497-498)。
 最初に攻撃したフランス軍左翼はスペイン軍の抵抗を受けなかった。レディンクが休戦を真面目に守ろうとしたためで、結果としてスペイン軍の歩兵2個大隊がフランス軍の捕虜になった(p498)。次に攻撃をしたフランス軍右翼に対しては、さすがにスペイン軍も激しく抵抗した。フランス軍がさらに攻撃を強化しようとしたところで、デュポンから戦闘をやめるようにとの文章での命令が到着した(p500)。ヴェデルは攻撃を中断し、今度こそ完全に戦闘行為は終結した。

 以上でバイレン戦役における軍事作戦の説明は終了だ。この後、具体的な交渉が行われ、その過程でスペイン軍が一度約束した「フランス軍を船に乗せて本国へ返す」という協定を反故にする事態が生じた。結果的にフランス兵は捕虜としてバレアレス諸島のカブレラ島へ連れて行かれ、そこで大半の兵は死亡することになる。デュポンら首脳部はフランス本国へ帰還できたが、ナポレオンから降伏の罪を問われ投獄される。
 ナポレオンの退位後、タレイラン主導で成立した暫定政府はデュポンを陸軍大臣に任命した("https://archive.org/details/legnraldupontune03tite" p544-545)。復古王政はそれを追認した格好だ。デュポンが陸軍大臣だったのは1814年4月から12月まで。その後も復古王政下いくつかの公務に就き、1832年に引退した。1840年3月死亡、74歳だった。
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