アンドゥハル撤収を決断したデュポンは、グアダルキビル川にかかる橋にバリケードを設置し、スペイン軍がそこを渡る際に時間がかかるようにした。爆発音でスペイン側に気づかれたくなかたっために橋の破壊は見送ったという。実際、カスタニョスがフランス軍の出発を知ったのはようやく19日の午前2時であり、駆けつけた農民の知らせによって初めて正面の敵が姿を消したことに気づいたという("
https://archive.org/details/legnraldupontune02tite" p482)。さらにデュポンが仕掛けたバリケードを撤去するのに時間を要したため、グアダルキビル川を渡ったのは実に午前8時だった。
最終的にカスタニョス部隊がバイレンの戦場近くに到着したのは19日の午後2時頃(p483)。デュポンの部隊が最初にバイレンで敵と接触したのは午前2時半だから、カスタニョスの追撃に対してほぼ12時間を稼ぎ出すことに成功した計算となる。その意味では日没を待って出発した彼の判断は正しかったと言えるし、この配慮によって結局カスタニョスの部隊はバイレンの戦いに参加し損ねることになる。
とはいえアンドゥハルからバイレンへの行軍はフランス軍にとっても楽ではなかった。デュポンはまず行軍中に戦闘になる可能性をにらんで縦隊の真ん中に病人を乗せた車両などを集め、前衛と後衛に実戦部隊を集めた。18日午後6時半に出発した前衛部隊はシャベールの第2旅団によって構成され、その後に主力部隊が午後8時に出発した。後衛を担ったのはパリ衛兵隊と親衛水兵大隊で、その実働戦力は約9200人だったとTiteuxは見積もっている(p451)。
さらにTiteuxは車両以外の全ての部隊について、行軍にどの程度の時間を要したかを推測している。それによると行軍時の全長は前衛部隊が900メートル、主力部隊は1万950メートル(内5000メートルが車両分)。前衛部隊が21キロメートルの距離を走破するのに8時間かけていたことから、彼らの時速は約2.5キロメートルと想定し、この前衛部隊がルンブラルで戦闘を始めた19日午前2時半の時点で主力部隊の先頭は前衛部隊の後尾から4キロメートルほど後方にいたと計算している。そして後衛部隊であった親衛水兵大隊の先頭はルンブラルまで15キロメートルの距離を残しており、到着までになお6時間は要する状況にあった(p452-453)。
ちなみにこの行軍の順番については、ヴィルトレ大尉が1808年8月と1809年11月に違うことを述べているらしい。最初の証言では「第2旅団、各スイス人連隊、騎兵師団、砲兵車列そして第1旅団」の順番だったのが、後の証言では最後に騎兵師団が追随したかのように述べている(p455-456)。皇帝の命令により後になって作られた証言が宛てにならないことを示す1例であり、新しい史料ほど取り扱いに注意が必要である点を裏付けるものだ。
同じ18日にヴェデルらはどうしていたのだろうか。まずヴェデル師団の本隊はTiteuxによると同日朝にグアロマンを出発し、素早くラ=カロリーナへと移動してそこに到着したという(p484)。その距離はTiteuxによると3リューとなっているが現代の地図だと14キロメートルほど。デュポン本隊同様に時速2.5キロメートルで移動したとすれば5~6時間かかった計算であり、出発は午前3~4時頃と推測される。デュフールとリジェ=ブレルも同じ頃、サンタ=エレナに到着したようだ。
ラ=カロリーナについたヴェデルが、後続のカヴロワ将軍に対してグアロマンで足を止めろと命じたことは既に触れた。この命令文では「状況が変わった」ことを理由に挙げているが、それが何なのかについての説明はない。しかし同じ18日にサンタ=エレナまで到達していたデュフールに出した手紙では「シエラモレナの山地に敵部隊はいない」(p485)と述べているから、ラ=カロリーナに到着して間もないうちにこの方面にスペイン軍が存在しない事実に気づいていたのだろう。
この後、ヴェデルとデュフールの間で複数の手紙のやり取りが行われる(p485-487)。相変わらず伝令の行き来が不十分だったようで、互いの意思疎通に苦しんでいる様子が窺えるが、両者の見解は一致している。つまりこの方面に敵の姿は見えず、シエラモレナの隘路を遮断するための迂回路は軍の移動には向かないものであることだ。この18日朝の時点でヴェデルとデュフールはようやく敵がシエラモレナに来ていないことを把握したのである。
そうした事態を受け、ヴェデルは午前10時半にデュポン宛の報告書を記す。シエラモレナに敵がおらず、マドリードからの手紙を運んできた伝令も途上で敵を見なかったこと、むしろスペイン軍はバエザ、ウベダ、リナレス及びメンヒバルを占拠しており、レディンクは最後の場所(つまりメンヒバル)にいるとの情報があることを彼は記し、「これ以上、山中に進む必要はないと信じます。従って本日はここ[ラ=カロリーナ]に布陣し、明日にはバイレンへ向かいます。(中略)彼[デュフール]は明日、グアロマンで私と合流します」(p488)と今後の方針を示した。
この手紙は後にデュポンの手に渡ったのだが、いつ司令官の手元に届いたのかは不明だ。というのもこの報告が出された時間には既にバイレンはスペイン軍の手に落ちており、そこを通り抜けてデュポンのところまで伝令がたどり着くのは困難だった。Titeuxは手紙を託された農民が上手くスペイン軍をすり抜けたか、あるいはフランス軍が降伏した後にヴェデルがデュポンに会って渡したかかのどちらかだろうと想像している(p488n)。
ではスペイン軍がバイレンを占拠したことにヴェデルが気づいたのはいつだろうか。18日午前の時点の手紙を見る限りでは判断がつかないが、翌19日の日中にヴェデルがデュポン宛に記した手紙には、前日朝にデュポン宛に手紙を送ることを任された軍曹が「通過することができず、昨日夕方に私の元にそれを持ち帰った」(p494)ことが記されている。従って遅くともこの時間帯にはスペイン軍がバイレンを押さえてしまったことに気づいた筈だ。
だがデュポンとの連絡を遮断されたことを知ったヴェデルがバイレンに向けて動き始めたのは翌19日の夜明け頃。サンタ=エレナからやって来たデュフールが合流した後、どころかバイレン方面で両軍が交える砲声が聞こえ始めた後になってからだ。スペイン軍がバイレンを占拠してから20時間近く、遅くともバイレンに敵がいると気づいた18日夕から12時間近く後のことであり、その間ヴェデルはラ=カロリーナから動いていなかった。それまで敵の噂だけですぐに動き出していたヴェデルが、なぜこの時は非常に腰が重くなったのか。
ヴェデル自身は2つの理由を挙げている。1つは3日3晩にわたって移動を続けてきた兵たちの疲労が激しく、また食事も必要だったこと、もう1つは砲兵の車両がかなり傷んでおり、緊急の修復のため翌日まで時間がかかったこと(p489)。ただし後者についてTiteuxは同日に書かれた車両の状況に関する報告を論拠に疑問を呈している。車両の状態が悪かったのは事実だが、悪すぎて本気で修復するなら「少なくとも8日が必要」(p490)だったため、それを理由に足を止めたとは考えられないそうだ。
疲労と空腹についてはTiteuxも否定していない。「しかし第2師団は17日夜と18日の朝にグアロマンで休み、たった3リューだけ移動し、午前9時にはラ=カロリーナに到着していた。従って彼らが夜出発することを妨げるものはなかった」(p489)というのが彼の考え。それに、たとえ疲労困憊していても、味方が窮地に陥っているのならその救出に向かうべきだという見解は当然あるだろう。
問題はこの時点で、デュポンがどうするつもりかヴェデルには分からなかったことだ。彼に分かるのはバイレンにスペイン軍がいること、そして自分たちが3つに、即ちサンタ=エレナのデュフールとリジェ=ブレル、ラ=カロリーナのヴェデル本隊、及びグアロマンのカヴロワ旅団に分断されていたことだ。もしバラバラなままスペイン軍に向かっていれば、敵背後からのデュポンの支援がない限り、兵力の逐次投入による敗北の可能性もある。
後知恵で考えるなら、18日夜のうちに移動を開始しておくべきだったのは間違いない。だがTiteuxはそうした後知恵に対する批判を自著の中で繰り返し指摘している。ならばこの時点でのヴェデルに対しても同じ視点で批判すべきだろう。ヴェデルが急いで行軍を始めなかったことを非難するのは、筋違いだと思える。
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