デュフールとヴェデル、それぞれの報告書が矛盾しているのは、おそらくどちらかが嘘を書いているためだ。どちらが正しいかをはっきり裏付けるソースがあるわけではない。しかし、常識に基づいて想像力を働かせれば、どちらが嘘つきであるかを見分けることは、決して不可能ではない。
なぜそう判断できるのか。それぞれの矛盾点から見て行こう。グアロマンにいたデュフールは、サンタ=エレナへ向かう必要はないと考えていたのか(デュフール説)、それともサンタ=エレナへ行くことをリジェ=ブレルと話し合っていたのか(ヴェデル説)。判定を下す明確な証拠はないのだが、デュフールがサンタ=エレナへ行くつもりだったと窺わせる史料はある。
ヴェデルがデュポンへ送った17日午後10時半の報告には、彼がまだバイレンにいた時点でグアロマンのデュフールから受け取った手紙(p437-438)も同封されていた(p446)。このデュフールの手紙はおそらく17日の日中に書かれたものであるが、改めて読むと実に興味深いことが書かれている。即ち彼がサンタ=エレナに偵察を出しており、ヴェデルからの情報がなければ「日没時に残っている私及びブレル将軍の兵とともにそこ[ラ=カロリーナ]へ向かうつもり」とある部分だ。
前回紹介した「報告書」、つまり17日の夜に書いたとされる手紙において、デュフールはヴェデルに対して「既に強力な偵察を押し出しているラ=カロリーナへの移動は無駄なばかりでなく危険ですらある」(p445)と主張したことになっている。日中の報告書では偵察を出したうえでさらに「私及びブレル将軍の兵とともに」ラ=カロリーナへ向かうつもりがあると明白に書いていた彼が、半日もしないうちに真逆の主張をしたことになるのだ。
もし本当にここまで派手に手のひらを返していたのなら、それには相応の根拠があったと考えるべきだろう。だがデュフールの「報告書」を見てもそうした根拠は示されていない。彼はそこで「敵はリナレスにいると確信している」(p445)と書いているものの、半日前まで「敵がサンタ=エレナに向かっていると様々な意見を聞いた」(p438)人物がどうして考えを変えたのか、その根拠となった情報が何なのかについては全く説明していない。
こうした疑問も、17日夜のデュフール「報告書」が偽物だと考えれば氷解する。デュフールは17日夜になってもラ=カロリーナやサンタ=エレナへ向かうことを考えていた。理由は日中の手紙に書いてある通り。様々な情報(地元に住むドイツ人からの情報も含む)でサンタ=エレナ方面に敵が向かうと知らされていたからだ。
デュフールは日中の報告の最後に「あなたの命令がなければ私はここを動きません」(p438)と書いており、Titeuxはこれをイタリックにして責任はヴェデルにあると示唆している。だが、何度も言うようにその前にデュフール自身がサンタ=エレナへ向かう考えがあること表明している。彼の日中の報告にも敵が向かう方角としてラ=カロリーナやサンタ=エレナの名が何度も出てくる。そうした状況を踏まえたうえで、グアロマンに着いたヴェデルがサンタ=エレナへの行軍をデュフールに命じたと考える方が妥当だろう。
ヴェデル自身の目的地についての言及も、デュフール「報告書」が虚偽である可能性をにおわせるものだ。ヴェデルは自身もサンタ=エレナに向かうつもりだと述べている。デュフールがサンタ=エレナに行くことになっており、またヴェデルは彼らと一緒に行動するようデュポンから命じられているのだから、ヴェデル師団もサンタ=エレナに向かおうとするのは不思議でも何でもない。なのにデュフール「報告書」はヴェデルの目的地をサンタ=エレナより11キロメートル南のラ=カロリーナだとしている。
なぜか。それは最終的にヴェデルがラ=カロリーナまでしか移動しなかったからだ。翌18日、グアロマンから移動を始めたヴェデルは、ラ=カロリーナに到着したところで、サンタ=エレナに向かえと命じていたカヴロワ将軍に対し新たに「状況が変わったのでグアロマンに布陣し、リナレスとバイレン街道を監視しろ」(p484)との命令を出している。さらに同日に出したデュフールへの命令では「敵部隊がシエラモレナの山地にいないとの情報を得たので、これ以上は進まない」(p485)と言明している。結局ここが彼の目的地になったのだ。
そう、確かにヴェデルはラ=カロリーナまでしか前進しなかった。だがそれは18日になって彼が得た情報に基づく決断であり、17日まではサンタ=エレナに向かうつもりだったのは疑いない。なのにデュフールが17日夜に書いた「報告書」では、ヴェデルの目的地がラ=カロリーナになっている。まるで未来を見通したような内容ではないか。
同様に、デュフール「報告書」にある「ヴェデルがデュポンに対して撤収を進言すると言明した」話も嘘だろう。事実、ヴェデルはそんな進言はしていないし、シエラモレナの敵を撃退したら「兵の大半とともにバイレンに戻り、あなた[デュポン]とできるだけ早く合流するための対応を取ります」(p446)としか述べていない。デュポンの命令に従い、山地のスペイン軍を排除したあとはデュポンと合流して正面の敵を叩くつもりだったと考える方が筋が通る。
それ以外にも、デュフール「報告書」にはおかしな部分がある。まずそもそも午後10時半のヴェデル到着時点ですぐ移動するよう命じられた指揮官が、あんなに長い報告書をグアロマンにいる間に書き上げられたというのが怪しい。また、長々と書いた報告書が結局デュポンに届いた様子がないのも変だ。ヴェデルは17日夜の報告で「デュフール将軍が私の手紙に対する返答として書いてきた手紙を同封します」(p446)と書いているが、この同封の手紙はおそらく日中のものだ。
もしデュフールが本当に報告書を書いたのなら、それはデュポンに送るべきだし、そして送っていたのならデュポンはそれに対して必ず何らかの反応を見せたはずだ。何しろデュフールの伝えるヴェデルの話は、Titeuxの言うように「もはやデュポンは司令官でない」(p446)と言われても仕方のないレベルの独断専行だ。部下両名がここまで明白に対立している状態にあるのに、デュポンがそれを完全に無視していたのだとしたら、いくら何でもリーダーとして不適切すぎる行動である。
中身的にも「報告書」にはおかしな部分がある。まるで後に起きることを全て見通しているかのような内容になっているのだ。バイレン撤収が敗北の要因になったこと、「デュポン将軍はどうなるのです」という2日後の出来事と妙に辻褄の合った指摘。いずれも記述が17日に書かれた点についての信頼性を疑わせるに足るものだ。
17日までのデュフールの行動について言い訳を並べているのもおかしい。17日夜の時点で、バイレンからグアロマンへ移動した彼の行動がどこまで致命的であったか、彼に判断できたとは思えない。何しろその時点ではアンドゥハルからバイレンへ移動してきたヴェデルと問題なく連絡を取ることができたのだ。フランス軍の背後が遮断され、デュポンが孤立するのは翌18日のこと。やはり未来に起きる出来事を全て見通したうえで書かれたとしか思えない文章である。
結論。デュフールが17日夜に書いたとされる「報告書」は、かなりの確率で偽物である。特に日付はでっち上げだと考えた方がいい。17日夜の時点でデュフールはサンタ=エレナに向かう危険性に気づいていなかったし、バイレンを撤収するリスクも把握していなかったし、ヴェデルの方針に反対してもいなかった。むしろヴェデルをシエラモレナに引きずる一因になっていた。おそらくそれが事実だ。
Titeuxの本はデュポンの名誉を回復し罪を晴らす目的で書かれたものである。だからこそ読んで面白いのだが、ところどころに無理やりな議論が挿入されているのは否定できない。とにかくデュポンを免責するため、ヴェデルにその責任を押し付けるケースが非常に目立つのだ。よく読めば疑問点の多いデュフールの「報告書」に彼が飛びついてしまったのも、そうした先入観が働いた結果だろう。史料の発掘能力という点ではずば抜けているTiteuxだが、だからと言って彼の言い分を全部信じるべきではない。
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