バイレン 報告書

 17日午後4時、バイレンにいたヴェデルはグアロマンへの行軍を始めた。その際、まず先行を命じられたのは第1旅団指揮官のポアンソ将軍だった。Titeuxによると「この将軍はこの移動の妥当性について見解を述べたが、無駄であった。ポアンソ将軍曰く『私は彼[ヴェデル]のところに駆けつけ、やろうとしているのが間違った行軍であると述べた』」。彼だけでなく、親衛水兵のバスト将軍、及び第2師団の参謀長であったラリューも、バイレンを去ることが軍に及ぼす危険性を指摘したが、いずれも「無駄だった」("https://archive.org/details/legnraldupontune02tite" p442)そうだ。
 かくしてヴェデルは移動を始めた。その際にバイレン北方のサン=クリストバル修道院にカヴロワ将軍の1500人及び大砲1門を残している。この修道院は「[町の]北600メートルのところにある高地に位置してカディス街道がバイレンに入る場所を見下ろしていた。この拠点は極めて重要かつ防御が容易で、バイレンを確保し行軍するフランス軍縦隊の後方を守っていた」(p442)。サン=クリストバルの丘についてはこちら"http://jaenpedia.wikanda.es/wiki/Cerro_de_San_Crist%C3%B3bal_(Bail%C3%A9n)"を参照。だがヴェデルはこの日の夜、この部隊までもバイレンから撤収させてしまう。
 ヴェデルがグアロマンに到着したのは午後10時半。バイレン―グアロマン間は現代の地図で14キロメートルであり、その移動速度は時速2キロちょっとになる。随分遅いように思えるが、かなりの暑さに加えて後半は夜間に突入したことも踏まえるのなら、あり得なくはない速度だ。
 この日の夜明けにグアロマンに来ていたデュフールは、リジェ=ブレル、ラ=グランジュらとともに終日このグアロマンにとどまっていた。Titeuxによると、彼らの姿を見たヴェデルは、すぐにグアロマン北方25キロメートルにあり、シエラモレナの峠に近いサンタ=エレナに向けて出発するよう彼らに命じたという。デュフールはそれに反対し、敵がいるのはグアロマン南東のリナレスであって北方ではないと指摘したが、ヴェデルはなおも行軍開始を命じ、最終的にデュフールはそれに従うことになったそうだ。
 デュフールがヴェデルの命令に反対した証拠として、Titeuxは彼が書き上げた15日から17日までのゴベール師団の行動について説明した長文の「報告書」を紹介している。この報告書は2通残されているそうで、どちらも彼の署名があるが一方は宛先が空白で、もう一方はデュポン宛となっている(p443)。17日にグアロマンで書かれたという日付を信用するならば、これはヴェデルが下した判断について17日時点で既に間違いだと見る見解が存在したことを示す重要な証拠となる。

 報告書(p443-445)はまずゴベール師団が7月3日にマドリードを出発したところから書き起こしている。アンダルシアに入った彼らは12日にグアロマンに到着。15日にスペイン軍がグアダルキビルを渡ろうとしているとの情報を得てバイレンに移動し、午前11時にこの町に来た。以後はこれまでも説明した通りで、翌16日にはバイレンからメンヒバルへの途上でスペイン軍と交戦し、ゴベールが致命傷を負った。
 その夜、敵が迂回しようとしていると考えたデュフールがバイレンを撤収したことも既に説明している。報告書では「この地域に腰を据えている外国人であり、また幸運な偶然だが私の忠実な使用人の両親でもある、私がその忠誠心にほとんど疑いを持たないスパイからの報告」(p444)が、こうした判断をもたらす一因になったと説明している。ちなみにヴェデルからデュポンに宛てて書かれた14日付の手紙でも情報を得るためイタリア人をバエザへ送り出したことが書かれている(p406)。スペイン人から完全にそっぽを向かれていたフランス軍が、どのようにして情報を得ていたかを示す一例と言えそうだ。
 デュフールは自分がバイレンを撤収したことについて「もし私が敵の意図について騙されていたのだとしたら、間違いなく私は失敗を犯したのだろう」(p444)とこの報告書で述べている。16日の真夜中にバイレンを引き揚げる決断をしたばかりなのに、それから24時間が経過しないうちに自分の行動が誤っていたかもしれないことに彼は気づいていた、ということになる。
 さらにもう1つ、彼はバイレン撤収を決断した理由に触れている。「他の将官や上官と同様、私もグアロマンへの移動が必要だと判断した上記の理由とは別に、波打つ地形で隠すことができていたこれほど弱体な戦力では、もし敵が我々の弱さに気づいてしまえば抵抗する望みがないことに皆が合意していた」(p444)というのがそれだ。バイレンで抵抗するだけの兵力はないことが、デュフールがグアロマンへの後退を決断した理由だという。
 そして「17日夜」、グアロマンにヴェデルが到着する。

「この将軍は私がここにいるのを見て極めて驚いていた。なぜなら彼が主張するに、敵はラ=カロリーナを支配しているからであり、従って彼は私に指揮下にある兵とともに即座にそこへ行くよう命じた。敵はリナレスにいると確信していた私は、既に強力な偵察を押し出しているラ=カロリーナへの移動は無駄なばかりでなく危険ですらあると見解を述べた。敵がその部隊で私を抜き去ろうとしても、私が占拠している連絡路以外は兵の集団には通行不可能なところしかない。だが私の見解にもかかわらず、ヴェデル将軍は私が全力でラ=カロリーナどころかサンタ=エレナまで向かうべきだと主張し、彼の師団もしばし休んだ上で自らラ=カロリーナへ行くと付け加えた。この決断に対し、私は声高に言わざるを得なかった。『ですがデュポン将軍はどうなるのです?』 彼はカヴロワ将軍が指揮する旅団をバイレンに残していると答え、さらに司令官に即座に後退するよう求める手紙を書くと付け加え、最後に敵を探し、これと戦ってそれから戻ってくるよう命じた。私はなお敵はリナレスにいると意見を述べた。また敵を探すには軍団ではなく偵察部隊が向いているとも加えた。常に敵はラ=カロリーナにいると確信していたヴェデル将軍は再び私に出発命令を下した。どのような説明も無駄だと見た私は、ヴェデル将軍に書面での命令を求めた」
p444-445

 ヴェデルが書いた命令は「親愛なる将軍、サンタ=エレナへ向かい兵とともにそこに布陣するため、そなたは出発するように」というそっけないものだったそうだ。デュフールは「ヴェデル将軍との合流が成し遂げられて以降、彼の命令以上のことはできなかった。従って私はこれ以上、細部まで論じるのは無駄だと考え」(p445)、上官の命令に従ってグアロマンを出発する決断を下した。以上がデュフールの報告書に書かれている内容だ。
 ラ=グランジュ将軍の副官だったラ=ブルドネの書いた回想録も、デュフールと同じ指摘をしている。曰く「ヴェデル将軍は17日、グアロマンでデュフール将軍を見つけ、彼をすぐサンタ=エレナへ出発させ、自らはラ=カロリーナへ向かうことで、デュポン将軍から1日行程以上に遠ざかった」(p445)。ただしこちらは何度も言うが回想録である。また最初に紹介したグアロマンでポワンソらが反対したという話は、1810年1月の証言に含まれているものであり、リアルタイム性には乏しい。そうなるとやはり17日に書かれたデュフールの「報告書」こそ、ヴェデルの責任を裏付ける最大の証拠のように思える。

 だが実は同じ17日付で書かれた別の史料に、それと矛盾することが書かれているものが存在する。それはヴェデルが午後10時半にグアロマンで記したデュポン宛の報告(p446)だ。
 ヴェデルによると「私はそこ[グアロマン]でデュフール将軍及びブレル将軍と合流しました。彼らはこの時、サンタ=エレナへ行ってそこで布陣する話をしていました」という。デュフールの「報告書」ではサンタ=エレナへ行くことに反対していたはずのデュフールが、こちらでは自らサンタ=エレナへ向かうことを口にしている。
 バイレンに残したカヴロワ将軍について「私の手紙を受け取ったところでそこを出発し、明日サンタ=エレナで私に合流するよう命じました」と書いているのも、ヴェデル師団の目的地が「ラ=カロリーナ」であったと記しているデュフール「報告書」と矛盾している。
 またデュフール「報告書」で「司令官に即座に後退するよう求める手紙を書く」と言っていたはずのヴェデルだが、実際に書いた手紙の中でそうしたことには一切触れいていない。確かにバイレンが持つ利点を色々と指摘しているが、ただしそれは「私にとってとても優位に思える」(p446)ものであり、バイレンの方が有利だからデュポンはそこへ後退すべきだなどとは一言も述べていない。
 他にヴェデルは引き続き敵がシエラモレナ方面に向かっている情報があること、山岳部への遠征が終わればバイレンへ戻って可能な限り早くデュポンと合流する準備をすること、そしてゴベール将軍の戦死が確認されたことなどを伝えている。同じ時間帯に同じ場所で書かれた報告書のはずなのに、これだけ食い違いがあるのは一体どういうことか。以下次回。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック