バイレン 上官の追認

 そういえばナポレオン漫画最新号で、バイレンを含むデュポンのアンダルシア遠征が12ページほど描かれていた。短すぎて詳細は分からないが、「台詞だけで終了」にならなかったのはよかった。

 閑話休題。17日のバイレンにおけるヴェデルの判断は、フランス軍の敗北に直結する重大なミスだった。ここで彼がバイレンから去ってしまったことが、後にデュポン直率部隊の孤立と降伏を招く。そしてこの判断ミスにはデュフールとヴェデルという、2人の部下が関与していることをこれまで指摘してきた。ではデュポン本人の責任はどうだったのか。
 バイレンからグアロマンへ向かう決定をした瞬間にデュポンが関与していないのは確かだ。何しろその時デュポンはアンドゥハルにいたのだから。だが部下がそうした判断をするような命令を事前に与えていたのだとすれば、デュポンも無実とはいえない。そしてヴェデルに与えてきた命令を見ても分かる通り、デュポンはグアロマン及びラ=カロリーナの安全にかなりこだわっていた。ヴェデルの判断に彼の命令が影響を与えた可能性はある。
 デュフールはデュポンからの直接命令が届く前にバイレンを撤収してしまったため、その行為にデュポンの責任はなさそうに見える。だがデュフールの前任者であるゴベールに対してデュポンはどう行動するか「全面的に任せる」"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55389692.html"とぶん投げているため、ゴベールの後任たるデュフールが自分で判断したのもデュポンに認められた権限の範囲内の行為である。ゴベールの死という想定外の事態があったとはいえ、部下に任せた以上、彼の失敗は自分と無関係だとは言えないだろう。

 もう一つ問題となるのは、事後的な了解である。ヴェデルはバイレンに到着した時点でグアロマンへ向かう方針を書いた報告書をデュポンに送っている。Titeuxによると、この報告はバストの報告と一緒にまとめて午後4時頃にデュポンの下に届いたという("https://archive.org/details/legnraldupontune02tite" p439)。遅くとも午前10時半に書かれた報告が届くにはいささか遅いように思うが、実は伝令の安全を守るため12騎の竜騎兵にこの手紙を運ばせるとヴェデル自身が書いている(p434)。1騎で自由に移動するのに対し、12騎が警戒しながら移動する方が余計な時間はかかるだろう。そう考えれば午後4時到着もあり得なくはない。
 この報告を受け取った時点のデュポンの状況についてTiteuxは以下のようにまとめている。その1、報告が届いた時間とヴェデルがバイレンを出発する時間が同じだったため、彼の移動を止めることはできなかった。その2、ヴェデルとデュフールが突如発狂したのでない限り、彼らの言う通りスペイン軍は本当にシエラモレナの隘路へ向かったのであり、バイレンへの脅威はもはや存在しない。その3、午後4時に到着した報告にはバイレンを完全に空白にするとは書かれていないし、実際にヴェデルはカヴロワ将軍と1500人の兵をそこに残していた。その4、デュポンはアンドゥハルに留まるよう繰り返し命じられており、彼自身もこの地へのコミットメントを何度も表明していた(p439-440)。
 こうした前提のうえで、デュポンはヴェデルからの報告に対する返答を17日夕に書いた。そこで彼は「敵が出現した場合に優位に戦うため、そなた[ヴェデル]が彼[デュフール]との合流を急ぐのを喜ばしく思う」(p441)とヴェデルの行動を褒め、さらにスペイン軍がラ=カロリーナではなく別の隘路を使ってラ・マンチャへ向かう場合にも備えるよう助言までしている。つまり、ヴェデルとデュフールの判断を全面的に信頼し、それを事後承諾するような手紙を書いているのだ。一方でリナレスとバエザに強力な偵察を送って敵の動きを把握すること、できるだけ早く情報を寄越すことなども求めているが、この手紙の中からは遂に「メンヒバル」の文字が消えている。
 つまるところ、デュポンは再びヴェデルを信用することにしたのであろう。直前の16日にヴェデルの判断ミスに裏切られたばかりだったのに、実にお人よしな行為だと思える。ただ、今回はヴェデルだけでなくデュフールも同じような判断をし、バイレンを捨ててグアロマンへと移動している。ヴェデルのみが勝手にグアロマンへ移動すると言っていたならデュポンも疑ったかもしれないが、複数の指揮官が同じ判断を下しているのならその決断は妥当性が高い、と考えたのかもしれない。
 だが理由はどうであれ、デュポンがヴェデルの判断に対して事後承諾を与えたことは事実だ。デュポンがもう少し注意深く彼らの報告を読み、デュフールのグアロマンへの移動についてヴェデルが「確証のあることは何も言えない」(p433)と述べている点に注意を払い、ヴェデルが噂のみに基づいて行動していること、またメンヒバル方面がどうなっているかについて全く言及していないことに気づいていれば、彼の行動を事後承諾する前にまず敵の位置をもう一度きちんと確認するよう命令できたかもしれない。それをしなかったのはデュポンのミスだろう。
 責任が全面的にデュポンにあるとまで見なすのは無理だが、かといってTiteuxの言うようにデュポンの判断が全く当然のものであり彼には責任がなかったと言われると同意しかねる。デュポン、ヴェデル、デュフールの3人にそれぞれ不作為の責任があった。デュフールは敵の動きを確認せずにグアロマンへの移動を決めたこと、ヴェデルはメンヒバル方面の偵察をしなかったか偵察に失敗したこと、そしてデュポンは部下たちの行動を詳細に調べることなく安易に事後承諾したこと。おそらく責任度合いが最も低いのはデュポンだが、彼も無実ではない。

 それにしてもバイレン戦役で目立つのは、フランス側の部隊間連絡が非常に滞っていたことだ。単に指揮官たちの報告・連絡・相談が上手くいっていなかったというレベルのものではなく、伝令の行動が物理的に妨げられていた様子が窺える。つまりスペイン側ゲリラの活躍だ。
 これまでも指摘したように、フランス側の報告や命令はしばしばスペイン軍の手に落ちている。フランス側もそれに気づいており、前に出した命令の写しを再度送ったり、あるいはヴェデルがやっているように伝令に護衛を大量につけて送り出すといった対策を打っているが、それでも万全を期して密接な連絡を取ることは難しかったようだ。
 デュポンやヴェデルの手紙を見ると、彼らもこの事態に戸惑っていた様子が窺える。おそらくここまで高い頻度で連絡が遮断される事態は、過去の戦役であまり経験したことがなかったのだろう。いかに伝令を無事に届けるかまで考えて行動しなければならない状況は、フランス軍の部隊間における報連相にボディーブローのようなダメージを与えていたのではあるまいか。
 ヴェデルは後に、グアロマンのデュフールから返答が届いたところで自らの手紙も添えてデュポンに手紙を送ったと主張している。だがこの「午後に彼がバイレンで書き、デュポン将軍に宛てた手紙なるものの存在は、どこにも痕跡がない」(p442)。Titeuxによればこの17日にヴェデルからデュポンに向けて書かれた手紙は3通だけ。朝方にバイレンへ向かう途上で記されたもの、バイレンに到着した午前8時半のもの、そして最後はグアロマンに到着した夜10時半の手紙だ。
 重要な判断を下すに際し、限られた数の手紙でしか状況を知らせてこなかったのはヴェデルの不作為と言えるだろう。ただしその不作為の背景には、上にも述べたような伝令を巡る問題点があったと考えられる。少ない伝令を出せば効率的に情報を伝えることができるが、そうすると途中でゲリラに襲われ人命と情報が揃って失われる恐れが高まる。かといって1つの伝令ごとにまとまった規模の騎兵を護衛につけていたのでは、騎兵が果たすべき他の役割に影響が出る。
 実際、この日の最後の手紙でもヴェデルはわざわざ配達人(おそらく民間人)に言及し「彼には充分に支払っているし、とても献身的だから、閣下の下に送った配達人には信頼を置いて使ってもらっても構わない」(p446)と書いている。伝令を送るたびごとに、どう対処するのが望ましいか、頭を悩ませながら決断を下していたのだろう。それが伝令の回数が減る遠因になっていた可能性は高い。
 時は1808年7月、半島戦争が本格的に始まってまだたった2ヶ月強だ。フランス軍の大半はゲリラ戦がどのようなものか、そこではどのような対応が重要になるのかといった経験が圧倒的に不足していたことだろう。もしこの場にかつてヴァンデで戦った高級士官でもいれば、もう少しは状況が変わっていたかもしれない。だがデュポン"https://fr.wikipedia.org/wiki/Pierre_Dupont_de_l%27%C3%89tang"は革命戦争期に主に北方軍に所属しており、ヴェデル"https://fr.wikipedia.org/wiki/Dominique_Honor%C3%A9_Antoine_Vedel"はイタリア方面軍の経験が中心だ。ゲリラ戦に習熟していたとも思えない。
 逆に言えばスペイン側に勝利をもたらした影の功労者は、実はゲリラたちだったと言うことになる。より正確には、ゲリラ兵と呼ぶのすらおこがましい農民たちの落ち武者狩り的活動が、最終的にフランス軍を追い詰めたとも考えられる。表面的にはバイレン戦役は正規軍同士の戦いだったが、実は情報の重要さとそれを遮断するゲリラ戦の強みを示す一つの例だったのかもしれない。
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