バイレン 迂回懸念

 ヴェデル将軍を再びバイレンに差し向けると同時に、デュポンはデュフール将軍にも16日夕に命令を送付した。バイレン前面に陣を敷きメンヒバル方面へ対応できるようにしていたデュフールに対し、もしそこを保持できない場合は「第2師団[ヴェデル]と合流するためアンドゥハル街道へ、もしくは状況に応じてグアロマンへ後退してもいい」("https://archive.org/details/legnraldupontune02tite" p436)とデュポンは指示している。だがこの手紙が17日にバイレンに到着した時、既にデュフールは移動して姿を消しており、手紙を運んだ伝令は虚しくアンドゥハルへと帰還した。
 デュフールはどこへ行ったのか。それを見る前に、まず16日の戦闘で勝利し、ゴベールに致命傷を負わせたうえでグアダルキビルの渡河点を確保したスペイン軍が、その後で何をしていたのかを確認しよう。

 スペイン軍に敗れて後退したデュフールがバイレン前面の高地に布陣したのは午後2時頃だった。もしこの時点でレディンクが彼らを攻撃していれば、圧倒的な数的優勢を誇っていた彼らはかなりの確率で勝利できただろう。スペイン軍はバイレンを押さえ、デュフールはおそらくグアロマン方面への退却を強いられていたと思われる。だがレディンクは攻撃を行わず、逆にメンヒバルの渡河点へ向けて引き揚げていった。なぜか。
 Artecheによればレディンクは「グアダルキビルからさらに離れ、自らの部隊が既に空腹、渇き及び疲労に見舞われている状態で新たなフランス軍部隊の到着に晒される危険性を理解しており(中略)メンヒバルへの帰還を決断した」("https://archive.org/details/guerradelaindep07morogoog" p488)という。空腹や疲労という要因に加え、フランス軍の増援が到着した場合の危険性を懸念していたのがレディンク後退の理由というわけだ。
 TiteuxはArtecheを参照しながら「スペインの将軍はおそらく戦闘を長引かせることで、ヴェデル将軍が彼の背後に到着することを恐れていた」("https://archive.org/details/legnraldupontune02tite" p427)と、より具体的な指摘をしている。アンドゥハルに向かっていたヴェデルが、メンヒバルの砲声を聞いてUターンを決断した場合にはこういう事態もあり得たわけで、レディンクがそれを懸念したのも分からなくはない。実際にはヴェデルが加わってもフランス軍の戦力はスペイン軍の半分強でしかないのだが、それでも背後を攻撃されればせっかくの優位が覆される恐れがあるのは確かだ。
 しかし、このArtecheやTiteuxによる説明のうち、きちんとしたソースが見つかるのは前半の「空腹、渇き及び疲労」の部分に限られている。たとえばこの時、英国の連絡将校としてスペイン軍に同行していたウィッティングハム大尉が本国に送った報告書。その概要がカッスルレーの手記"https://books.google.co.jp/books?id=XusxAQAAIAAJ"に載っているのだが、それによると7月17日付の報告書で彼はこの16日の戦闘について「メンヒバル近くのグアダルキビル河畔でレディンクの8000人と、胸甲騎兵1個連隊を含む5000人のフランス軍との間で戦闘が行われ、大きな損害を出したフランス軍の敗北で終わった。だがレディンクは食糧不足のため彼が得た優位を捨てることを余儀なくされ、メンヒバルへ後退した」(p143)と述べている。
 迂遠な証拠ではなくよりはっきりとしたソースもある。以前にも紹介したこちらの本"https://books.google.co.jp/books?id=e58LAAAAYAAJ"には、ずばり16日付のレディンクの報告書も掲載されている(Tomo Segundo. p67-68)。その文中には「私の指揮下にある兵たちは任務を果たし、暑さ、飢え及び渇きに苦しみながら必要以上を達成しました」(p68)という言葉があり、これがウィッティングハムの報告に該当する部分だろう。
 だがその後に書かれていることは、今まで紹介した本には載っていないものだ。曰く「しかし、敵が占める新たな陣地を相次いで突破するという、果てしなく続く攻撃が必要な地形だったため、私はこの村[メンヒバル]に午後2時に戻ることを余儀なくされました」。フランス軍が後退しながら抵抗を繰り返すことを可能にする地形を見て、これ以上の攻撃はできないと判断したことが、レディングが撤退を決断した理由だったのだ。
 逆にArtecheが指摘している「新たなフランス軍部隊の到着に晒される危険性」についての言及は、この報告内には一切見当たらない。Titeuxはヴェデル師団が回れ右するケースを想定しているが、そうした話も全く出てこない。この報告を見る限り、スペイン側がフランス軍の新たな増援を心配して攻撃をやめたと解釈するのは不可能だ。
 残念ながらArtecheがどこからこの説を持ち出したのかは分からない。ただ彼は15日のメンヒバルでの戦闘について、本格的戦闘より火災の延焼防止に力を注いだと記している"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55393107.html"。そのような話を書いている他の史料として私が見つけることができたのは、1833年に出版された二次史料"https://books.google.co.jp/books?id=osdCAAAAYAAJ"だけ。そこには穀物が炎上し、レディング将軍の命令で火災の抑止に成功したという話が載っている(p315-316)。Artecheはソース不明な二次史料の話を著作で引用していた可能性があり、そうなるとこの「増援の危険」という説も実は由来が不明なものかもしれない。
 いずれにせよスペイン軍が退却した理由についてはレディンクの報告書を最大の根拠とすべきだろう。ArtecheやTiteuxが採用している根拠については、より具体的なソースが見つかるまでは信用しない方が安全だ。

 かくして勝ち誇っていたスペイン軍は、唐突にデュフールの正面から姿を消した。午後3時半に書いた手紙で「[デュポンとの]連絡線を保持するため可能なあらゆる執拗さで一歩一歩陣地を争う決断をした」("https://archive.org/details/legnraldupontune02tite" p426)はずの敵が一向に姿を現さない一方、デュフールの手元には午後7時頃になって新たな情報が届いた。リナレスに配置されたラニュス率いる大隊が、ウベダから来たスペイン軍縦隊に攻撃されたというものだ。それは実はスペイン軍主力ではなく、バルデカニャスの志願兵と農民との部隊だった。
 砲声が聞こえる方角から「グアロマンへ後退するよう命じられていたこの哨戒線が、バイレンへ後退することで敵にラ=カロリーナへの道を空けてしまったと判断した私[デュフール]は、すぐに1個大隊をグアロマンへ送り出した。彼らは実際にこの地からリナレスへ向かう街道上4分の1リューのところで敵と遭遇したことを知らせてきた」(p437)。ラ・マンチャへ通じる唯一の連絡路が脅かされていると判断したデュフールは、バイレンを捨てグアロマンへ移動する決断をした。
 真夜中に移動を始めたデュフールがグアロマンに到着したのは17日夜明けだ。そこに足を止めている間にヴェデルからどこにいるか知らせよとの命令を受け取った彼は、ヴェデルへの返答の中でバイレンを出発した理由について「第7臨時連隊のラニュス少佐が指揮する300人の歩兵分遣隊が、1000騎の騎兵を含む6000人から7000人の部隊にリナレスの陣地を突破されたと知らされた私は、即座にグアロマンへと出発するのが自らの任務だと信じた」(p438)と述べている。
 グアロマンに到着した彼は、リナレスとグアロマンの間に7000人から1万人の敵がいるとの情報を得て偵察を送り出した。そこで実際に敵を発見したが戦力は不明だったという。また地元に住むドイツ人から、ルシタニア連隊を含む敵兵が8時か9時頃にリナレスを出発してサンタ=エレナへ向かったこと、夜には彼らがラ=カロリーナとサンタ=エレナ間まで来るであろうことも知らされた。自身はグアロマンに留まりながら、デュフールは一部の部隊をさらにサンタ=エレナまで進ませ、この方面の情報を得ようとした。

 正面からすぐにも攻撃してくると思った敵が姿を見せない。一方、側面からは敵が背後の連絡線を脅かしているとの情報がやって来る。もしかしたら敵は正面攻撃をせず、側面を迂回しようとしているのではないか。デュフールがそう不安を抱くのも無理からぬところではある。
 だが 実際のスペイン軍の動きを知っている人間からすれば、デュフールの得た情報は明らかに間違っている。なのに彼は存在しない幻の敵を追って最も重要な拠点であるバイレンを明け渡してしまった。普通に考えればこの日のスペイン軍の後退は指揮官の負傷で動揺しているフランス軍に立て直しの機会を与えるような下策だろう。でも実際にはこの後退が思わぬ効果を上げ、フランス軍を敗北へ追いやる一因となったのだ。人生万事塞翁が馬。
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