バイレン 選択肢

 16日のデュポンの決断は何が問題だったのか。フォワが分かりやすくまとめている。彼はまず、1万2000人のフランス軍が1ヶ所に集結していれば、訓練を受けず規律に欠けるスペイン軍4万人を打ち破るのに充分だと指摘。「必要なのはカスタニョスの兵と農民たちを壊滅させるため彼ら[フランス兵]をグアダルキビルの対岸で使うか、あるいは峠を守るためシエラモレナで使用するかだ」("https://books.google.co.jp/books?id=P2LQHrePTHMC" p336-337)と書いている。
 フォワによれば前者はフランス軍の性格に合っており、後者はイベリア半島全体の情勢にふさわしいという。それに対し、実際にデュポンが選択したのはヴェデルらをバイレンに戻し、自分はアンドゥハルへ留まるという対策だ。「このように兵を分散させ、自らを中央ではない地点に置くことで、彼は危険を冒した(後略)」(p338)というのがフォワの評価である。
 もっと厳しい口調なのはThiers。彼は16日朝[ママ]にヴェデル師団とデュポンの主力が合流した時点こそ「1万4000人のフランス兵及び2000人のスイス兵で敵に襲い掛かり、彼らを長期にわたって打ち払うことで、犯してきた失敗を取り戻す真にいい機会だった」("https://books.google.co.jp/books?id=4VS2f-fPiyYC" p78)と見ている。若い兵すべてを煽り立てている熱意をもってすれば何事であれ容易であった、というのがThiersの見解だ。
 似たようなことはOmanも言っている。彼は「意欲的な指揮官ならおそらく後者の選択肢[カスタニョスを攻撃する]を選び、失敗することはないだろう。なぜならブレルとデュフールの兵を除きアンダルシアにいるフランス軍全体が今やアンドゥハルに集結し、少なくとも1万5000の銃剣と3000のサーベルがカスタニョスの1万2000人への攻撃に使えたからだ」("https://archive.org/details/historyofpeninsu01oman" p182)と説明。たとえクーピニー師団が合流しても兵数は同水準であり「スペイン軍が敗北を喫することには毫も疑いが生じ得なかった」(p182-183)と断言している。
 逆に早期に後退すべきだったとしているのがClercだ。彼はマレスコの報告を紹介。「16日夕方、アンドゥハル正面の敵右翼がメンヒバルあるいはバイレンの方向へ向かっているように見えた」との言及があることを指摘し、スペイン側がフランス軍の連絡線を脅かしているのにデュポンはそれを洞察できなかったと批判している("https://archive.org/details/guerredespagneca00cleruoft" p170)。Thiersもデュポンがヴェデルの後をすぐ追わなかったことを「致命的かつ信じられないような無知」("https://books.google.co.jp/books?id=4VS2f-fPiyYC" p80)としている。

 デュポンの判断を糾弾する声が多い中、彼の対応をむしろ評価しているのはTiteuxくらいだ。彼はまず全軍でバイレンへ引き揚げる策について「マドリード及びバイヨンヌの指示に対する公式な違反」だと指摘。アンドゥハルを放棄すれば彼の軍がその地で必要な食糧などを集められなくなり、すぐにシエラモレナを越えてアンダルシアから撤収することを余儀なくされると書いている。アンドゥハルにはフランス軍が小麦粉を作ることができた唯一の施設だった水車があり、かつ病人を収容できることが可能なたった1つの町だった。アンドゥハル放棄はアンダルシア放棄に直結していた、とTiteuxは見ている。
 次にヴェデルとともに正面のカスタニョスを攻撃するのは、退路のない状態で会戦を行うことを意味しており、敗北時には全軍の壊滅につながる。この時点でデュポンの手元には1万4500人がいたが、うちグアダルキビルを渡って攻撃をしかけられるのは1万3000人ほどが上限。その数でアンドゥハル南方の高地を占めるほぼ同数のスペイン軍と戦わねばならず、しかも敵にはすぐにクーピニーの9000人が増援に訪れる可能性があった。退路を確保していない状態では極めてリスキーな選択である。
 最後にヴェデルのみをバイレンに戻すのは16日より前の状態に戻すことであり、マドリードとバイヨンヌの指示にも従っている。バイレンに戻ったヴェデル将軍はメンヒバル方面のスペイン軍をグアダルキビル対岸まで押し戻さなければならないが、この攻勢は敵に強いられたものであり、攻勢を禁じた上層部の命令にも反してはいない("https://archive.org/details/legnraldupontune02tite" p428-429)。
 以上のように判断したデュポンは、今度は口頭ではなく文章でヴェデルへの命令を記した。すぐにバイレンへ向かい、そこでメンヒバルで戦った部隊(つまりデュフールの部隊)と合流するように。第6臨時連隊と騎兵2個大隊がヴェデル師団と合流する。敵を翌日にはメンヒバルの対岸へ撃退し、グアロマンとラ=カロリーナの安全を図る。戦闘が成功したなら部隊の一部をもってすぐアンドゥハルの主力と再合流し、正面の敵と戦う。バイレンにはその防御に必要な戦力のみを残す。そして「もし敵がバエザを占拠しているのなら、それを追い払う必要がある」(p429)。これがデュポンの指示だった。

 Thiersの批判が論外なのは言うまでもないだろう。そもそも16日朝の時点ではヴェデル師団はアンドゥハルに到着しておらず、全師団が揃ったのは夜になってからだ。合流したフランス軍が正面の敵に攻撃を仕掛けられるのはどんなに早くても翌17日以降。その時点ではメンヒバルの敗北が既に伝わっており、Titeuxの言うように退路を確保できないままで戦闘を仕掛けることになる。Omanの指摘も同様に問題含みであり、またOmanによるデュポンの戦力推定は他の著者と比べても最も過大で、実際にはもっと少なかったと考えた方が安全だろう。
 それにTiteux以外の面々がいずれも「攻勢に出てはならない」というフランス軍上層部の命令を完全に無視しているところも問題だ。さらに誰も指摘していないが、17日に正面のカスタニョスを攻撃するということは、16日の戦闘で敗北したデュフールの部隊を見捨てることに等しい。デュフールは16日午後3時半に書いた手紙で圧倒的な数的不利への懸念を述べ、「グアロマンへの後退を余儀なくされる恐れがある」と述べている(p426)。正面の敵を攻撃することは彼を増援しないことを意味する。即ちほぼ自動的に退路を断たれ、背後に1万人の敵を抱える覚悟をしなければできないことなのだ。にもかかわらずそうした点を勘案しているのはTiteuxしかいない。
 それに比べればバイレン後退説はより実現性の高い選択肢のように思える。ただしこれもまたマドリードとバイヨンヌの命令に反している点は同じ。デュポンはギリギリまでアンドゥハルと守ると上層部に伝えていたが、16日の夕方時点で間違いなく「ギリギリ」になったと判断するのは難しいだろう。何しろ退路が脅かされているのは事実だが、バイレン自体はまだフランス軍の手の内にある。この時点での退却は早すぎると上層部から批判されかねない。
 何よりアンドゥハルを捨ててしまえば、デュポン自身が不服従の罪を犯すことになる。ヴェデルがメンヒバルを捨てて移動してきたことに対しデュポンは「彼の失敗を非難し、その致命的な結果を示した」("https://archive.org/details/legnraldupontune03tite" p413)。その舌の根も乾かぬうちに今度は自分が上官の命令に反した行動を行ったのでは、流石に部下に対して示しがつかないだろう。
 結局、最も無難な選択は史実がそうだったように一部の部隊をバイレンに差し向け、デュポン自身はアンドゥハルに残ることなのだ。この判断にもし問題があるとしたら、その「一部の部隊」をヴェデルに指揮させた部分だろう。前日に大間違いをやらかした当人に、また重要な任務を任せるとはどういうことなのだ、と批判される可能性があるからだ。
 ただしこれも安直にそう言い切るのは難しい。ヴェデルが15日に失敗したのは事実だが、それ以前の彼はアンダルシアで孤立していたデュポンを救済すべくシエラモレナを突破したり、7月初旬には一部の部隊でハエンへの遠征を成功させるなど、無難に任務をこなしていたのだ。またバイレン周辺に半月以上にわたって駐留していたことも重要。バイレンに土地勘を持つ指揮官を送り込みたければ、選択肢はヴェデルしかなかったのかもしれない。
 デュポンは「厳格さより博愛をもって」("https://archive.org/details/legnraldupontune02tite" p431)ヴェデルにリベンジの機会を与えた。どうやら司令官には「まさか同じやらかしを再現することはないだろう」という判断もあったようだ。

 "If anything can go wrong, it will." ―― Murphy's law
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