バイレン 多勢に無勢

 ヴェデルがアンドゥハルに到着したところまで説明したが、彼の到着前にアンドゥハルで何が起きていたかを説明しておこう。前日、アンドゥハルに対する牽制として砲撃だけ行ったカスタニョスだが、この日も午前3時から砲撃を再開。さらにグアダルキビルの平野にいくつかの縦隊を送り出し、橋頭堡を攻撃するかのような格好を見せた。スペイン側の基本計画に従い、敵を牽制するための示威行動を真面目に実行していたわけだ。
 加えてこの日は、前日にマルモレホでグアダルキビルを渡ったクルーズ=モリヨンの部隊が、山中を移動してアンドゥハルにいるフランス軍の右側面に姿を現した。デュポンは後方に配置していた第6臨時連隊をそちらへ差し向け、フランス兵は銃剣突撃を行ってスペイン軍を山中へと追い払った。「砲撃は7~8時間続いた」("https://archive.org/details/legnraldupontune02tite" p420)が、結局示威行動以上のことは行われず、この日の戦闘も午前中には終了した。

 アンドゥハルの情勢が変わり映えのしないものだったのに対し、メンヒバルでは事態が大きく動いた。Titeux曰く、スペイン軍の4分の1まで減ってしまったフランス軍は、この方面で一気に窮地に陥ったのだ。
 日付が16日になった時点で、ヴェデルが去ったメンヒバルの渡河点では残されたリジェ=ブレルが危険を察知していた。グアダルキビルを見下ろす高地に主力を布陣し、川沿いとそこの堡塁には4個中隊のみを置いた彼は、東方のハバルキントへ偵察隊を送り出した。午前2時に戻ってきた彼らは、この方面でグアダルキビル右岸に蜂起軍がいることを報告。リジェ=ブレルはすぐゴベールに、敵の攻撃が予想されると知らせた。ゴベールは16日付のデュポンへの報告で「ブレア将軍が厳しい口調で攻撃させる恐れがあると警告してきたので、彼のところへ行軍します」(p423)と伝えた。
 Artecheによれば、ヴェデルの動きに気づいたレディンクは今こそ正面で何が起きているか偵察するときだと判断。「16日午前3時に彼の師団をグアダルキビルを越えて送り出し、渡し舟を見下ろす高地にクーピニーが送ってきた2個大隊と大砲2門、及びいくらかの騎兵を配置した(中略)。大半の兵は渡し舟で輸送するには遅く危険すぎるため、3キロメートル上流にあるリンコンの浅瀬で渡河した」("https://archive.org/details/guerradelaindep07morogoog" p483-484)という。
 川沿いを守っていた4個中隊はすぐに後方の高地へ退却した。リジェ=ブレルは右翼に第5レギオンの第2大隊を、左翼にスイス人部隊を配置して抵抗を試みるが、数的優位を持つスペイン軍が左翼側を迂回してきたため後退を強いられた。彼はこの状況を再びゴベールに連絡し、ゴベールはデュポン宛の極めて短い手紙で「私は行軍しています。ブレル将軍が拠点の放棄を余儀なくされたと知らせてきたので、彼のところに駆けつけます」(p424)と伝えた。また同じ手紙の中で、バエザ方面にバルデカニャスのスペイン軍志願兵部隊5000人が確認されたことも知らせてきた。この方面にスペイン軍がいるとの情報は、後にフランス軍の判断に大きな影響を及ぼす。
 急ぎ前進したゴベールがバイレンとメンヒバルの中間地点でスペイン軍と接触したのは、午前8時頃だった。スペイン軍約1万人に対し、リジェ=ブレルの部隊を指揮下に入れてもゴベールが率いていたのは僅か2000人ほど。フランス軍は抵抗を続けたが、一方的な兵力差からゴベールが退却を命令した時「彼は頭部を撃たれた」(p425)と、後に将軍ラ=グランジュの副官ラ=ブルドネが証言している。
 胸甲騎兵を率いて突撃を行っていたクリストフ中佐によると「茂みに隠れていたこの[ワロン人近衛隊の]1人の兵が、ゴベール将軍を殺した」という。彼らは将軍の死に怒って再び突撃を行ったが「ゴベール将軍の死はデュポンの軍におけるあらゆる不運の最初の原因となった」(p425)。実際にはこの時点でゴベール将軍はまだ生きていたが、運ばれた先のグアロマンで翌朝3時に死亡したという。後を引き継いだのは旅団長のデュフール将軍で、彼はさらに後退し、バイレン手前の高地に布陣した。午後2時、スペイン軍の前進が止まり戦闘は終わった。

 午後3時半、デュフールはデュポンに宛てて戦闘報告を記した。大雑把な戦闘経過を記したうえで「[敵は]おそらく再び攻撃を再開する機会のみを待っています」と指摘。さらに「できるだけ早くあなたの意図を知らせてください。なぜなら峡谷の出口を保持するため、またラニュス少佐の知らせによればおよそ7000人の兵力でリナレスへ移動した敵がグアロマンへ向かおうとしているように思えるので、敵に先行するべくにグアロマンへの後退を余儀なくされる恐れがあるからです」(p426-427)と述べている。
 この報告は、Titeuxによれば午後6時頃にデュポンの下にたどり着いたという(p427)。これまた具体的な論拠を述べていないので断言はできないが、おそらくヴィルトレ大尉の証言が根拠だろう。彼は戦後の尋問で「それからデュポン将軍はヴェデル将軍と協議を行い、そしてこの[ヴェデル]師団は午後6時かその頃に出発し、再びバイレン方面へ向かった」("https://archive.org/details/legnraldupontune03tite" p77)と述べている。
 バイレンとアンドゥハルの距離は、以前も述べた通り31キロメートルは離れている。de Witによれば50キロメートルの距離を伝令が移動するのに通常は5~6時間かかるらしい。時速に直すと8~10キロメートルだ。31キロメートルを2時間半(時速12.4キロメートル)はいささか速すぎるが、3時間かかったとすればほぼ時速10キロメートルになるため、一応辻褄は合う。
 もっともヴィルトレ大尉は厳密には「午後6時頃」に報告が届いたのではなく、ヴェデルが出発したと述べている。1個師団、しかもその一部はまだアンドゥハルに到着していなかった師団が、報告が届いた直後に出発するというのは、理屈の上はともかく現実には難しい。おまけに午後6時に報告が届いたという説はデュポン自身の説明ともずれている。デュポンは後に「そのこと[メンヒバルの敗北]を私が知ったのはようやくヴェデル将軍が到着した2時間後だった」(p437)と証言している。つまり午後4時こそ報告が届いた時刻ということになる。
 だが午後3時半にバイレン近くで書かれた報告書が午後4時にアンドゥハルに到着することはあり得ない。考えられるとすれば、デュフールの報告書より前、例えばゴベールが致命傷を負った時点で、口頭で報告するための伝令がデュポンの下に送られた可能性だ。午前中に出発すれば午後4時にデュポンに状況を知らせることは可能だろう。もっともそんな伝令が送られたというソースがあるわけではなく、あくまで私の想像に過ぎない。
 Titeuxはデュポンが後に行った証言を採用せず、明確に報告書(つまり物証)が残されている午後3時半の報告書の方を重視したのだと思う。それはそれで一つの見識だ。結局のところ「午後4時報告到着―午後6時ヴェデル出発」説は、後になってデュポンやヴィルトレが行った証言から推測したものでしかなく、はっきりと裏付ける証拠はない。
 さらにTiteuxは、命令を受けたヴェデルが、ヴィルトレの言うような午後6時ではなく、夜になって出発したと書いている("https://archive.org/details/legnraldupontune02tite" p431)。前に紹介したように、そもそもアンドゥハルへの到着が午後8時になった部隊もあることを考えるなら、Titeuxがそうした結論にたどり着いたのも無理はない。実際、午後8時に到着した兵は「少し休んだ後、我々が穏やかな眠りを味わうことを考えている時、武器を取れとの命令が出た。夜9時、我々は再びバイレンへの道を取った」(p419-420)と書いている。ヴェデル自身も夜9時に出発したと主張している("https://archive.org/details/legnraldupontune03tite" p265)。

 16日の夕方にメンヒバルの敗北を知らされたデュポンは驚愕したという。ヴィルトレ曰く、「後にデュポン将軍は、ちょうどメンヒバルの陣地で攻撃されたゴベール師団の兵をヴェデル将軍が支援しなかったのには驚かされた、と私に話した」(p77)。またデュポンの「概要」にも、この報告によって「ヴェデル将軍の失敗が容易ならぬものであることが全て明らかになり、同時に私の配置の正しさも認識された」(p704)との指摘がある。
 デュポンの証言を信じるなら、16日の午後は情勢判断がめまぐるしく変わったことになる。メンヒバルを守っていると思っていたヴェデルがアンドゥハルへ向かっていることを知り、それならメンヒバル方面には敵はいないのだろうと思ったら、今度は大軍がメンヒバルから攻めてきてゴベール将軍が致命傷を負ったとの情報が届いたのだ。この混乱の中で、彼は次の決断を求められる。そして後にこの時の選択を大いに批判されることになる。
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