1個大隊もしくは多くて1個旅団を増援に送れという命令に反し、ほぼ1個師団丸ごとアンドゥハルへ向かう決断をしたヴェデルは、まずその事実を伝えるべく副官ワルネを司令官デュポンの下に送り出したという。「従ってもしこの行動を[デュポンが]承諾しない場合は、途上で反対命令を受け取ることができただろう。私の副官は夜7時にアンドゥハルに到着した」("
https://archive.org/details/guerredespagneca00cleruoft" p162)と、1808年から12年に受けた取調べを再発行したObservations de Vedelの中で、ヴェデルは主張している。
ワルネの到着時刻が問題になるのは、それによってヴェデルの責任が変わるためだ。遅い場合はデュポンが反対命令を物理的に出せなくなるため、ヴェデルの不服従が主な問題となる。早い場合は反対命令を出さなかったデュポンが事実上の事後承諾をした格好になり、ヴェデルの責任が減る。
同じ手紙の中に「[アンドゥハル正面の敵]は本日、攻撃を再開するだろうと考えられる」ともあるので、手紙が書かれたのは比較的早い時刻、もしかしたら未明かもしれない。それでも16日時点のデュポンが、ヴェデルはハエン―バイレン街道上にいると認識していたのは重要だ。もしヴェデルの言うように15日の夜7時にワルネがデュポンの下にたどり着いていたのであれば、翌日にサヴァリー宛の報告を書く際にその事実が反映されていないのはおかしい。つまり、少なくとも日付が変わってしばらくの間、デュポンはヴェデルの移動を知らなかったのである。
Clercは著作の中で「ヴェデルは司令官がアンドゥハル正面で接している危険を過度に警告され、師団全てではないがその大半とともに自ら向かうことがいいと信じた。そのうえ『もし私[ヴェデル]の行軍が間違いであったのなら、なぜそれを止めなかったのか』。デュポンにはそれができたのか? 彼にその時間はあったのか? 明らかにイエスだ」(p169)と結論づけている。しかしこの手紙を見る限り、Titeuxの言うように「レディンク将軍の攻撃は16日午前3時に行われたため、ヴェデル将軍が都合のいい時間にメンヒバルの渡し舟にいることを可能にするだけ充分に早くデュポン将軍が反対命令を送ることは決してできなかった」(p418)という指摘の方が正しい。Clercの批判は間違いだ。
ただ個人的には、そもそもメンヒバルの戦闘に間に合うか否かをこの時点で判断できる情報を持っていなかったデュポンについて、間に合わないという理由で免責するのは無理があると思う。むしろTiteuxの指摘の中では「彼[デュポン]にとってヴェデル将軍の到着は、スペイン軍がメンヒバルに少数の兵しか持たず、アンダルシア軍の大半はアンドゥハル正面にいることを意味していた」(p420)という部分の方が実情に近いだろう。何せデュポン自身はアンドゥハルの敵を見ていないのだ。歴戦の軍人であり革命前から士官だったヴェデルが自分の目で見て判断したのなら、それが正しいと思うのが普通である。
そう考えると、やはりヴェデルの判断が不思議に思える。彼は以前からバイレンの重要性を何度かデュポンに指摘されていた。7日付でヴェデルがリジェ=ブレルに書いた手紙には「司令官からの返答によると、そなたが占拠している陣地を変える理由はなく、従ってそなたはハエンからバイレンへの街道を守るように」とあったし、10日付の同じくリジェ=ブレル宛の手紙でも「司令官の指示によれば、メンヒバル渡河点は攻撃されてもしぶとく守らねばならないし、もしそこに私がいなければ、私は救援に駆けつけるつもりだ」と述べている(p417)。
にもかかわらずヴェデルがほぼ全師団をアンドゥハルへと移動させた結果、リジェ=ブレル将軍に残されたのは2個大隊半つまり約1600人の歩兵、及び80騎の竜騎兵と大砲2門だけとなった。バイレンにいるゴベール師団は歩兵600人と騎兵300騎しか持っていなかったため、約1万人のスペイン軍に対しフランス側はほぼ4分の1の2500人で対峙する羽目に陥ったのである(p417)。Titeuxに言わせれば、たとえ正面にいるスペイン軍の実情が分からなくても、彼らが右翼のビリャヌエバとメンヒバル方面に戦線を延ばしているとの情報があったのだから、1個大隊以上の兵を送るべきでなかったということになる。
正直言って、メンヒバルに留まり単独でスペイン軍を撃退した方が、ヴェデルの名声にとってはプラスになるはずだ。アンドゥハルに移動してもデュポンの下にいる1師団長以上の立場にはなれず、たとえそこで勝利が得られたとしても評価はたがか知れている。にもかかわらず自らほぼ全師団とともにアンドゥハルへ向かったのは、そこでしか戦闘に参加できないだろうと踏んだためか、もしくは本気でデュポンが窮地にあると考えたのだろう。だが自分の目で見ていない戦場について、そこまで思い込むことができるのは尋常なことではない。極めてリスキーな決断だ。
ヴェデル師団がアンドゥハルに到着した時間についても諸説ある。彼らが出発したのはTiteuxによれば午後5時(p418)。ヴェデルによれば地形の困難もあり「深夜2時にバイレンとアンドゥハルの中間地点に到着した。(中略)私は再編のために止まり、まだ移動を取り消されていなかったため、4時半にアンドゥハルに向けて出発した。(中略)努力を払ったものの、私は午前10時前には到着できなかった」("
https://archive.org/details/legnraldupontune03tite" p265)ということになる。
彼と平仄の合った証言をしているのは工兵将軍のマレスコ。彼は取り調べの際に「ヴェデル将軍は16日朝にアンドゥハルに到着したと記憶しています」(p263)と述べている。これでも行軍時間は17時間になり、時速に直せば1.5キロメートル程度しかないもの凄く遅い行軍である。
だがもっと遅い時間に到着したとの指摘もある。デュポンは「彼[ヴェデル]は(中略)アンドゥハルに16日午後2時に到着した」(p436)と自己弁護の中で指摘し、また戦役についてまとめた資料「1808年7月15日から22日までのアンダルシアにおける私の作戦の概要」でも、「同日午後2時、ヴェデル将軍がアンドゥハルに到着する」(p704)と書いている。ヴィルトレ大尉も尋問の中で、ヴェデル将軍について「7月16日午後2時かそのあたりにアンドゥハルに到着した」(p82)と指摘している。
そして行軍に参加した兵士たちの話を見ると、むしろ後者との整合性が高い。ある者は「夜明けに敵の散兵が我々に接近した(中略)。ようやく我々は[アンドゥハル―バイレンの]主要街道に到達した」(p419)と述べている。この主要街道との合流点はほぼ全行軍の中間地点であり、ヴェデルが午前2時に到着して4時半に出発したと主張している場所だ。7月中旬のアンダルシア地方では日中の時間が約14時間半。ちょうど真夜中が0時だとすれば午前4時半は僅かに日の出前だ。夜明けの後に中間地点に到着したという兵の記述と、夜明け直前にその中間地点を出発したというヴェデルの主張とは微妙に矛盾している。
スペイン側の証言も同じだ。ヴェデル師団が行軍したルートと川を挟んで反対側にいたクーピニー師団は、夜明けに北岸を移動するヴェデル師団の動きに気づき、ブルボン騎兵連隊とカタロニア志願兵部隊を送り込んでフランス軍の後衛部隊を攻撃。何人かの捕虜と、デュポンがマドリードへ送ろうとした報告書を奪ったという(p419)。Artecheの本"
https://archive.org/details/guerradelaindep07morogoog"にも夜明けに行軍したヴェデル師団がビリャヌエバのスペイン軍に発見されたと書かれている(p489)。ビリャヌエバはアンドゥハルとバイレンの中間地点を少し過ぎた場所にあり、やはりヴェデルの証言より遅い時間の通過を窺わせる。
何よりヴェデルどころかデュポンの証言よりはるかに遅れて行軍していた兵たちがいたことが問題だ。別の兵はバイレンとアンドゥハルをつなぐ街道にたどり着いたのが「16日の午後2時近く」であり、さらに遅れた部隊の合流を待ってそれから師団を追ったところ、ようやく「午後8時にデュポン将軍の宿営地に到着した」(p418-419)そうだ。ヴェデル自身はもっと早く到着していたかもしれないが、師団が勢ぞろいしたのは日没後だったのである。
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