バイレン 渡河攻撃

 前回の決断を受け、次はヴェデルのアンドゥハルへの移動、及びそれが戦況に及ぼした影響について述べるのが妥当なんだろうが、ここでまた少し寄り道をさせてもらう。ヴェデルが「メンヒバルは安全だ」と判断する大きなきっかけとなった15日の戦闘について、もっと詳細に見ておきたい。
 このメンヒバルで行われた15日の戦闘について、一般的にはスペイン軍側が仕掛けたものだと見なされている。例えばネイピアの本"https://books.google.co.jp/books?id=pW4PAAAAYAAJ"では15日に「レディンクはリジェ=ブレルを攻撃したが、ヴェデルが来援した際に退却した」(p75)とある。サヴァリーも回想録"https://books.google.co.jp/books?id=lgwbAAAAYAAJ"で「[スペイン軍が]メンヒバルにおいて少数で渡河した」のに対抗し「デュポン将軍はバイレンに駐屯していたヴェデル将軍に対し、メンヒバル渡河を妨げるよう命じた」(p258)と書いている。
 この「スペイン軍がメンヒバルでグアダルキビル川を渡河して攻撃してきた」との指摘は他にもあり、例えばThiers"https://books.google.co.jp/books?id=4VS2f-fPiyYC"は「バイレン前面で彼ら[スペイン軍]はメンヒバルの渡し舟を越え、ヴェデル将軍の前哨線を撃退した」(p77)と書いている。Oman"https://archive.org/details/historyofpeninsu01oman"もまた「レディンクは本格的な前進を試み、グアダルキビルをメンヒバルで渡ってリジェ=ブレルを攻撃した」(p181)と記している。フォワの本"https://books.google.co.jp/books?id=tt5nAAAAMAAJ"でもヴェデルの接近でレディンクの前衛部隊が「急ぎグアダルキビルを再渡河した」(p332)としており、渡河攻撃の後で再渡河して引き揚げていったことが分かる。

 だが、前回紹介したヴェデルの報告文をよく読むと、この話がおかしいことが分かる。彼によると15日の戦闘は以下のような経緯を辿ったことになる。

「[午前]6時半、敵は自らの持ち場を増援し、そして[リジェ=]ブレル将軍の報告によれば、朝のうちに攻撃されると予想していた。彼らは後退せず、我々の前哨線との小競り合いを行った。左岸のあばら家を占拠している30人の部隊を支援するために2個中隊が派出され、敵は既にこの陣地から排除された。敵の陣地は再び増援され、マスケットの銃撃はより激しくなった。川の対岸で交戦している全部隊を守るため、ブレル将軍は左岸の2個中隊を砲撃によって支援した。砲撃は約2時間続いたが、敵は我々に大砲を見せなかった。しかし彼らは戦闘のためあらゆる手配を行った」

 読めば分かるのだが、ヴェデルはグアダルキビルの「左岸」、つまりスペイン側の河岸で行われた戦闘についてしか触れていない。わざわざ2個中隊を渡河させて戦闘を行ったのはフランス軍の側であり、スペイン側は「攻撃されると予想」して増援を送ったのである。つまり、ヴェデルの報告を読む限り、よりアグレッシブに攻撃を行ったのはフランス軍の側なのだ。
 同じことはスペイン側の史書を読んでも指摘されている。独立戦争(半島戦争のスペイン側の呼び方)の詳細な歴史書であり、Titeuxも色々と引用しているArtecheのGuerra de la independencia, Tomo II."https://archive.org/details/guerradelaindep07morogoog"によると、スペイン側から見たこの日の戦闘は以下のようなものだったらしい。

「15日にヴェデルがメンヒバル対岸に現れた。前日はスペイン軍の姿を見たときに後退しかしなかったリジェ=ブレル将軍は近くで上官に支援され、レディンクの兵に対してはるかに激しい射撃を始めた。レディンクは少数の兵しか送り込まず、敵の攻撃というよりは偵察と思えるものを撃退すべく散兵で対応した。到着したヴェデルはスペイン軍に強さを見せつけるため2個大隊を配置した。レディンクは計略を見抜いた。彼はこれらの部隊の存在に注意しながら、ゴイコエチェア大尉の工兵中隊を窒息させようとしているフランス軍の射撃によって村の近くの畑に着いた火を消すことに専念した」
p475

 フランス側が攻撃を仕掛け、2個大隊を配置して威圧しようとしているが、実際には威力偵察に過ぎない。だから対応は最低限に留め、火災の悪影響を回避することに注力した、というのがこの説明だ。あくまでスペイン側は受身であり、だから全兵力を展開する必要もなかった。結果として「ヴェデルはおそらく3000人[ママ]と見積もられる数個大隊以上を見ることができず」、メンヒバルに迫る脅威を過小評価した。
 「見たものの平穏さ、及びレディンクの慎重な留保に騙され、ヴェデルは(中略)メンヒバルではなくアンドゥハルでこそ彼と彼の兵全ての存在が必要だと信じ込んだ」というのがArtecheの結論であり、ヴェデルの手紙からもそうであっただろうことが窺える。ただしそれはスペイン側の攻撃が限定的だったからではなく、あくまでフランス側の威力偵察に地味な対応しかしなかったから。ヴェデルはこちらが攻撃を仕掛ければ相手も本気を出すと信じ込んでいたようで、それが彼の間違った判断をもたらした。
 にもかかわらず多くの史書でスペイン軍が攻撃を仕掛け、なおかつ渡河まで行ったと書かれている原因ははっきりとしない。サヴァリーの回想録、あるいはネイピアの初版本("https://books.google.co.jp/books?id=j_ZRAAAAcAAJ" p121)あたりには既に「渡河」という言葉が出てきているし、フォワの本にも「再渡河」という言葉があるので、少なくともその頃より古い時期から存在した説なのだろうが、詳細は不明だ。
 なおTiteuxは、ヴェデルがメンヒバルのスペイン軍を3500人と見積もったことに対して「彼[ヴェデル]がメンヒバルの敵戦力の重要性に気づいていなかったはずはない」(p418)と批判している。なぜなら旅団長だったポワンソが、ヴェデルとリジェ=ブレルによる敵戦力の推計は約1万人であったと1810年1月に証言しているからだ。ただしこの証言はバイレン戦役の1年半も後の話であり、Titeuxが採録しているヴェデルの報告書にある1808年7月15日という日付が正しいのなら、そちらに載っている「3500人」という数の方が妥当性が高いと見るべきだろう。

 それにしてもこのヴェデルの判断ミスをもたらしたレディンクの対応は、別の意味で疑問を引き起こす。アンドゥハル前面にいるカスタニョスが行った行動と、どうも辻褄が合っていないように思えるのだ。カスタニョスは15日の朝からアンドゥハル橋頭堡への砲撃を行っているし、下流ではクルーズ=モリヨンがグアダルキビルを渡ってデュポンの側面を脅かそうとしている。陽動としては充分な動きを見せていたと言えるし、だからこそデュポンもヴェデルに増援を依頼したのだろう。
 なのに、上記の史料を見る限りレディンクはこの日、自ら積極的に動こうとした気配がない。せっかく司令官が陽動をしかけているのだから、タイミングを合わせてメンヒバル突破を図ってもおかしくなさそうなのに、そもそも川を渡ろうとすらしていないのだ。スペイン軍の主攻撃を担うはずだった男が、である。
 たとえば彼の部隊がこの日の朝にメンヒバルに到着したばかり、というのなら彼の慎重さもわからなくはない。だがArtecheの本によればレディンクの前衛部隊がメンヒバルに現れてグアダルキビル左岸のフランス軍を攻撃したのは前日14日の午前5時だ(p473-474)。レディンクの全師団も14日の午後には到着しており(p474)、休憩は取れていたはず。15日の攻撃が不可能だったとは思えない。
 Artecheは、「ヴェデルの綿密な監視から兵を隠したことが彼[レディンク]の期待した効果を生み出し」(p483)、その結果としてヴェデルがメンヒバルを去ったと書いている。つまりレディンクは全て計算のうえで15日に敢えて消極的な行動を取ったという説だ。ただしArtecheはこれを裏付けるようなソースを示していない。個人的にはこの解釈はいささか後知恵が過ぎるように思えるし、むしろ、レディングはそもそも15日に攻撃を行うつもりはなかったと言われる方が納得できる。
 バイレン戦役におけるフランス側の連携の悪さはかなりのものだが、スペイン側も程度の違いはあれ同じ傾向にあったのかもしれない。
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