バイレン 準備

 さてようやくバイレン戦に入る。7月11日、スペイン側のアンダルシア軍はアンドゥハル南西のポルクナで会議を開催し、今後の計画を発表した。ClercのCapitulation de Baylen"https://archive.org/details/guerredespagneca00cleruoft"には参謀長モレノがまとめた作戦内容が引用されている(p159-160)。

「敵はアンドゥハルに布陣し強化されている。我々の主要目的は敵を追い払うことにある。そのため軍は側面への移動によってバイレンへ向かうべきである。バイレンを占拠する分遣隊を攻撃することで彼らがアンドゥハルにいる主力部隊と合流するのを妨げ、また後者の退路を遮断することで、我らの数的優位から期待できる敵の降伏かあるいは不利な状態での戦闘を強いる。
「そのため、
「第1師団(レディンク)は移動を始める。彼らはメンヒバル上流の2つの浅瀬を渡る。
「第2師団(クーピニー)はメンヒバルとアンドゥハル間、メンヒバルに近いところで渡河する。彼らはレディンク師団が対岸に行き行動できる状態になるのを待つ。
「第3師団(ジョーンズ)は第2[師団]より下流で、彼らの後に渡河する。
「最後に予備(ラペーニャ)が第3[師団]と同じ地点で渡り、全体的な動きに追随する。
「渡河後は時間を無駄にすることなくバイレンへ向かい、各師団は互いに連携する。
「レディンク師団より前に彼らの上流で渡河するレイナ大佐とバルデカニャス大佐の部隊は前者がバイレンを攻撃するときにバイレンとグアロマンの間に布陣し、そこを占拠する分遣隊がシエラモレナへ後退してきた際にはその壊走を完全にし、またデスペーニャペロスから来る救援を止める」

 バイレンにいるのを「分遣隊」と書いているのを見ても、スペイン側はヴェデル及びゴベール師団の増援到着に充分気づいていなかった可能性がある("https://archive.org/details/legnraldupontune02tite" p385)。その意味ではサヴァリーの努力もこの時点ではプラス効果があったのだろう。デュポンがマドリードに送っていた増援を求める手紙の一部はスペイン側の手に落ちており、彼らの士気を高めていた。12日には全面攻撃の準備が行われる。
 フランス側もスペイン軍の動きには気づいていた。既に10日にはヴェデルがビリャヌエバに現れたスペイン軍についてデュポンに報告しており(p386)、彼らは攻撃に備えてさらに準備を固めた。スペイン軍がグアダルキビル川沿いに展開を始めた13日の時点で、フランス軍は以下のように配置されていた。
 まずデュポンが司令部を置いたアンドゥハルにバルブー師団などフランス兵8000人、スイス兵1500人がおり、さらに病院に1600人の病人がいた。バイレンにはヴェデル師団約5500人が布陣していたが、同師団の病人1700人はバイレンやアンドゥハルなど各地に分散していた。メンヒバルに派出されていたリジェ=ブレル将軍の部隊は1400人ほどで、他にもグアダルキビル川沿いに見張りが配置されていた。ゴベール師団はグアロマンにいたが戦力は1000人に満たない程度しかなかった。同師団の騎兵360騎はリナレスを占拠してバエザとウベダを見張っており、1個連隊はアンドゥハルに送られていた。
 Titeuxによるとその戦力はフランス兵1万4000人、スイス人=フランス部隊1500人、スイス人=スペイン部隊1500人だった。彼らは大きくアンドゥハルの9500人と、バイレン及びその周辺の7500人という2つのグループに分かれていたが、病気などで1日あたり120~150人の実働兵力を失っていたという(p401-402)。
 一方、スペイン側の兵力はレディンクが9436人、クーピニーが7850人、ジョーンズが5415人、ラペーニャが6676人となっており、それ以外に砲兵が約1000人いた。加えて右翼の別働隊として活動していたバルデカニャスの兵力が約5000人、左翼の別働隊だったクルーズ=モリヨン中佐の兵力が約2000人おり、武装した農民などを除いても約3万8000人の兵力を保有していたという(p374-377)。モレノ参謀長の言う通り、圧倒的な「数的優位」だ。加えてフランス側には脱走が多く信頼度の低かったスイス兵もおり、状況が極めて厳しいものだったことは間違いない。

 14日早朝、レディンクの前衛部隊がグアダルキビル川左岸のメンヒバル村に現れ、そこを占拠していたフランス軍を小競り合いの末に撃退する。同日夕にはレディンクの全師団も村に到着した(p404)。報告を受けたヴェデルは「渡し場にいる兵を支援するため第1旅団を出発させた」(p405)が、敵が本格的に攻撃してくる様子がなかったため、結局この部隊は引き返させた。
 敵の動きに対するデュポンの反応は慎重なものだった。14日のおそらく午前中に書いたヴェデル宛の手紙では「おそらく敵はアンドゥハルに対して計画を抱いており、メンヒバルに示威行動を行うことで我々の注意を逸らそうとしているのだろう」(p405)と述べている。また夕方にゴベールに書いた手紙の中でも「この地点[アンドゥハル]こそ敵が主要攻撃を向けてくる地点だと想定している」(p411)と書いており、これが彼の基本的な考えだったことが分かる。
 この基本的な考え自体は間違っていたが、デュポンはそれに固執してはいなかった。夕方5時にヴェデルに書いた手紙では「兵をリジェ=ブレル将軍の背後に配置した方がいいだろう。この方面に本格的な攻撃がある場合は必要に応じて素早く彼を支援するべく到着する時間を得るためにも」(p406)と指示。「そなたの方面[メンヒバル]で攻撃的な動きがあれば、第6臨時連隊がバイレンへ向かいそなたがその指揮を取る」(p407)と、必要ならヴェデルを増援する考えも示している。
 夜9時の手紙ではさらにメンヒバルからの攻撃への警戒を強めている。ビリャヌエバの敵が午後5時に出発し、グアダルキビル川を遡って右側へ移動したとの情報が伝わったことも一因で、ヴェデルに対し「ゴベール将軍に合流するよう書き送れ」と命じている。一方、この時点で「アンドゥハル正面には敵部隊はいない」とも記している(p408)。
 デュポンの連絡を受けたヴェデルは、バイレンの左側に位置していた第1レギオンの大隊に対して15日午前1時に出発し、メンヒバル方面へ半リュー(約2キロメートル)の位置にある高地を占拠するよう命じた。メンヒバルから攻撃があれば、この部隊に続きすぐ第1旅団も前進する予定だった。またリジェ=ブレル将軍に対しては攻撃に備え川の渡河点を見下ろす高地まで下がって布陣することを認めている(p408-409)。
 ラ=カロリーナにいたゴベールに対しても、デュポンは適切な命令を下している。まず自分もしくはヴェデルから連絡があればすぐ出発できるよう準備をせよと指示(p410)。夕方には「もし想定されるように明日の朝ヴェデル将軍が攻撃されたのなら、彼と連携して行動するためバイレン近くへ移動せよ」(p411)とも命じており、メンヒバルからバイレンにかけての地域での戦闘を想定した対応を進めている。
 その一方でラ=カロリーナを注意深く守る必要性も指摘。敵が迂回してシエラモレナの隘路を押さえる可能性に対応すべくウベダ方面の動きを把握しておくよう指示している。最初に述べたアンドゥハルへの攻撃も含め、様々な可能性を想定したうえで、当面最も危険性が高いメンヒバル方面への対応を優先させていた、というのが実情だろう。

 Titeuxはこの日のデュポンの対応を簡潔にまとめている。マドリードの命令に応じてアンドゥハルを最後まで保持するつもりであること、バイレンとメンヒバルでは敵のグアダルキビル右岸への渡河を防ぐこと、リナレスではバエザ及びウベダを監視し敵の迂回行動を見張ること、そしてラ・マンチャへの連絡路であるラ=カロリーナを確保すること。「両軍が遭遇しようとする時点においてデュポン将軍の指示は状況から見て完全に適切なものであり、それぞれの役割を明確に定めていた」(p411)というのがTiteuxの評価だ。この時点では妥当な指摘だろう。
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