バイレン 経過

 ナポレオン漫画の最新号。主役はゴヤだったがここではデュポンに焦点を当てる。漫画のデュポンはおそらくこちら"http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bc/General_Pierre_Dupont_de_l%27%C3%89tang.jpg"を参照して描いたものだろう。登場した号のうちに退場してしまった彼だが、実はバイレンにおける彼の降伏に関しては色々と議論がある。
 そもそもこのバイレンの戦いについて、日本語で読めるものはほとんどない。戦前に出版された「戦争史: 西洋近世篇」"https://books.google.co.jp/books?id=TjoFiVgDACwC"にごく短い文章が掲載されている(p348)ものの、内容が短いうえに極めて不正確なので全くあてにならない。wikipediaでも取り上げているのは英語"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Bail%C3%A9n"をはじめ欧米各言語のみで、日本語はなし。
 最近出版された翻訳本"https://books.google.co.jp/books?id=5Cw7BAAAQBAJ"には、ティエボーの回想録("https://archive.org/details/mmoires04thieuoft" p247-252)から引用したバイレンに関するナポレオンの発言が収録されている(ルジャンドル将軍との対話)。だがナポレオンの一方的な言い分を載せているだけで、そもそもバイレンで何が起きたのかについての説明はほぼ皆無に等しい。そして漫画でもコレンクールの発言だけで終わらせており、やはりバイレンで起きたことは分からない。

 というわけで、何が問題になっているかの前に、そもそもバイレンで何が起きていたのかを知る必要がある。参考になりそうなサイトを紹介しよう。
 最初に参考にするのを避けた方がよさそうなところを。英語wikipediaはEarly fightingの部分に書かれているメンヒバル(Mengibar)を巡る戦闘の日付が間違っている。誤った記述をしている歴史書("https://books.google.co.jp/books?id=_AkKAAAAIAAJ" p162-164)を参照しているせいだ。同じように参考文献に挙げているウィリアムやフォワといった同時代の軍人、あるいは詳細さで評価の高いCharles Omanの本を使って書けばよかったのに、なぜ敢えてHamiltonの本を引用したのか理由は不明。
 フランス語wikipedia"http://fr.wikipedia.org/wiki/Bataille_de_Bail%C3%A9n"は当事者のくせに英語よりも短く簡単な記述しかないため、これもあまり参考にはならない。スペイン語wikipedia"http://es.wikipedia.org/wiki/Batalla_de_Bail%C3%A9n"はそれよりマシだが、こちらは脚注や参考文献がほぼ皆無なのが問題か。それにフランス語やスペイン語では読むのに苦労する。できれば英語でほしいところだ。
 こちらのサイト"http://www.peninsularwar.org/bailen.htm"は比較的簡潔にまとまっており、大雑把な流れを把握するにはよさそうだ。ただ、7月19日の会戦に至る前の両軍の移動についてまとめた地図"http://www.peninsularwar.org/images/map_bailen1.gif"は、残念ながら決して分かりやすいとは言えない。実際、両軍(というかフランス軍の)移動は結構ややこしく、それを1枚の地図で示そうとすると却って混乱してしまうのが実情だろう。
 流れについて説明しているうえ、地図も豊富なのがこちら"http://www.historyofwar.org/articles/battles_baylen.html"。7枚もの地図を使って7月14日から19日までの両軍の動きを示している。おそらくこのサイトが一番使いやすいだろう。もちろん完全に正確とは言えない部分もありのだが、一般的にどう説明されているかを知るうえでは参考になると思う。

 デュポンの部隊は1808年5月末にアンダルシアへの前進を始めた。6月上旬にコルドバ"http://www.cordoba.es/"を占領した彼らだが、兵力不足とスペイン側の抵抗もあってそこを持ちこたえることはできず、増援に接近するため北方のアンドゥハルへと後退する。フランス軍はそれから約1ヶ月、その場所にとどまっていた。その間にカスタニョス"http://es.wikipedia.org/wiki/Francisco_Javier_Casta%C3%B1os"率いるスペイン軍は兵力を再編。7月中旬に準備を整えて反撃に出た。
 7月14日時点の両軍の配置はこちらの地図"http://www.historyofwar.org/Maps/maps_baylen_14_july.html"にある。見ての通り、フランス軍はグアダルキビル川に沿って防衛線を敷いており、ラ=カロリーナ(La Carolina)から北方へ伸びるラ・マンチャへの連絡線を守っていた。この連絡路はシエラモレナ山脈をデスペニャペロス峡谷で通り抜けており、この隘路を押さえられるとマドリードへの退路が断たれることになる。万が一の時の退却ルートを確保しつつ、アンダルシアに足場を築いておこうとしたフランス側の狙いが読み取れる。
 防衛線の右端、アンドゥハル(Andujar)にはコルドバへ至る街道の橋があり、デュポンはバルブー師団ら主力とともにここにいた。その東方メンヒバルには渡し舟がありリジェ=ブレル将軍が部隊を率いて監視していた。機動防御に当たるうえで動きやすい拠点となるバイレン(Baylen)にはヴェデル将軍の師団が留まり、北方ラ=カロリーナには増援として送られてきたゴベール師団が到着した。
 一方、スペイン側の主力部隊は3つに分かれていた。スイス人のレディンク"http://es.wikipedia.org/wiki/Teodoro_Reding"率いる師団はメンヒバルへ、フランス出身のクーピニー侯マレ"http://es.wikipedia.org/wiki/Antonio_Malet"の師団はアンドゥハルとメンヒバルの間にあるビリャヌエバ(Villanueva)へ、そしてアイルランド出身のジョーンズ率いる師団とスペイン人ラ=ペーニャの予備をまとめてカスタニョスが指揮し、アンドゥハルへ向かった。随分と国際色豊かだ。それ以外に、地図には書かれていないが少数の部隊が両翼で活動している。
 スペイン軍の計画は、カスタニョスがアンドゥハルのフランス軍主力を牽制している間にレディンクとクーピニーが右側からグアダルキビル川を突破してデュポンの背後に回りこむ、というもの。15日には本格的な戦闘が始まったが、フランス軍はバイレンにいたヴェデルがリジェ=ブレルの救援に駆けつけてメンヒバルでレディンクの撃退に成功する。ゴベールはヴェデルの穴を埋めるためバイレンまで移動する"http://www.historyofwar.org/Maps/maps_baylen_15_july.html"。
 正面に敵の接近を見たデュポンはヴェデルに対し、一部の部隊をアンドゥハルに送るよう命じる。だがヴェデルは一部ではなく師団のほとんどを率いてアンドゥハルへ移動。結果として手薄になったメンヒバルでは16日に再びレディンクが攻撃を行い、リジェ=ブレルを圧倒した"http://www.historyofwar.org/Maps/maps_baylen_16_july_am.html"。増援にかけつけたゴベール師団も撃退され、ゴベール自身は致命傷を負う。フランス軍はメンヒバルの渡河点からバイレンへ後退した"http://www.historyofwar.org/Maps/maps_baylen_16_july_pm.html"。
 ゴベールから指揮権を引き継いだデュフール(Dufour、地図のDufortは間違い)の下に、スペイン軍がリナレス(Linares)を経てラ=カロリーナへ回り込もうとしているとの情報が届く。実際にはレディングはメンヒバルに留まっており、リナレスの動きは少数の側面部隊を見間違えたものと思われる。だがこの情報を信じたデュフールはバイレンを撤収しラ=カロリーナ方面へ後退した。一方、ゴベールの戦死を知らされたデュポンはヴェデル師団を16日夜にバイレンへ送り出す。
 17日、バイレンに戻ってきたヴェデルは敵も味方も見当たらないことに驚く"http://www.historyofwar.org/Maps/maps_baylen_17_july_am.html"。スペインのレディンクはクーピニーが合流するまでバイレンに前進するつもりはなかったのだ。だがスペイン軍の位置が分からなかったヴェデルは、デュフールの後を追ってラ=カロリーナへ向かう決断をした。そうやってがら空きになったバイレンに、翌18日、レディンクとクーピニーが入り込む"http://www.historyofwar.org/Maps/maps_baylen_18_july.html"。
 背後を脅かされていたデュポンはようやく18日夜にアンドゥハルからの撤収を始めたが、19日朝にバイレン近くに到着した時には既に退路を断たれていた"http://www.historyofwar.org/Maps/maps_baylen_19_july.html"。デュポンはスペイン軍の戦線を突破しようと何度も攻撃を仕掛けるが、全て撃退される"https://www.youtube.com/watch?v=5edZgWSE43Y"。やがてアンドゥハルから追撃してきたカスタニョスの部隊が戦場に到着。万策尽きたデュポンは降伏を強いられたのだ。

 以上が主にネットで簡単に入手できる情報に基づいた戦役の経緯だ。次回はもう少し具体的に使える史料と、この戦役を巡る論争について紹介する。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック