この伝記ではそもそも「追伸」の存在自体に触れていない。単にアルヴィンツィが書いた手紙の内容が「彼の軍はチロル方面から南下するがいつ到着できるかはわからない」(p201)というものであったと述べているだけ。1月13日や14日、リヴォリ、プロヴェラ、レニャーゴといった、偽りの「追伸」に含まれているキーワードへの言及は全くない。触れるに値するものではないという判断だろう。
他にもこの伝記では、息子である大デュマの回想録と同時代の史料との違いをあちこちで指摘している。著者が(プロローグでも主張しているように)信頼性の高い史料を真面目に探し回ったことが分かる部分だ。ゆえにこの伝記に書かれていることは比較的史実に近いと推察される。
そうだとした場合、面白いのはこのデュマ将軍の「名前」である。英語wikipedia"
http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas-Alexandre_Dumas"をはじめ、ネット上ではその多くが彼の名を「トマ=アレクサンドル・デュマ」と書いている。だがこの本は、将軍が軍に入って以降、彼の名をほぼ一貫して「アレクサンドル(アレックス)・デュマ」と記しており、「トマ」はつけていない。なぜならアレックスは軍に入った時以降「二度と“トマ”という名前を使わなかった」(p101)からだそうだ。
要するに同時代、及び直後の時代において「トマ=アレクサンドル」と書いている事例はたった1つしか見つからないのである。むしろ世間一般の認識で言うのなら、当時この将軍は「アレクサンドル・デュマ」もしくは「アレクサンドル・ダヴィ=デュマ」の名で知られていたと見る方が妥当だろう。伝記の著者が指摘するように「“トマ”という名前」はほとんど使われなかったのである。
では彼の名は現在のwikipediaが記しているような「トマ=アレクサンドル・デュマ」ではなく「アレクサンドル・デュマ」あるいは「アレクサンドル・ダヴィ=デュマ」とするべきなのだろうか。必ずしもそうとは言えない。歴史上の人物の通称が本人の「自称」とずれているのは珍しくないからだ。
それに伝記を読む限り、自称で「トマ」を使わなかったといっても他称で使われた事例はある。彼の結婚に際して町役場が出した告知書には「市民トマ=アレクサンドル・デュマ・ダヴィ・ド・ラ・パイユトリー」(p144)と書かれていたそうだから、公式記録を重視するなら「トマ」付きの名前だって使用可能になるだろう。
つまるところ世間一般に知られている名前こそが、歴史上の人物を表すのに適した名前になる。デュマ自身が「トマ=アレクサンドル・デュマ」と名乗ったことがなくても、それが世間一般に通じている名称であるのなら、この名称を採用する手もあるだろう。
ただ基本的にマイナーな人物であるため、そもそも世間一般にあまりその名が知られていないのが現状である。現時点で本当に「トマ=アレクサンドル・デュマ」が一般的通称と断言できるほど人口に膾炙しているかどうか、私には判断できない。それなら本人の自称を重視して「アレクサンドル・デュマ」、あるいは同時代性に重点を置いて「アレクサンドル・ダヴィ=デュマ」と呼ぶ方が、より安全確実な選択だと思える。
問題は「アレクサンドル・デュマ」だと彼より有名な息子や孫と名前がかぶってしまう点にある。息子と孫は「大」「小」で区別する用法が一般化しているが、将軍についてはそうした方法が定着しているとは言い難い。もしかしたら分かりやすさ重視のために「トマ=アレクサンドル」を使うという方法が、ただいま現在広がりつつあるのかもしれない。
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