黒い伯爵 上

 最近になってこんな本"http://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=08426"が出版された。原著"http://www.tomreiss.com/node/18"は2012年出版で、ピューリッツァー賞も受賞している"http://www.pulitzer.org/citation/2013-Biography-or-Autobiography"。大デュマの父親、デュマ将軍に関する伝記だ。
 デュマ将軍については以前、マントヴァの包囲に関する話を紹介したことがある"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/dumas.html"。デュマが入手したスパイの手紙に「追伸」があったかどうかという話だ。実際には「追伸」は彼の息子である小説家がでっち上げたもので、もともとそんなものはなかった可能性が高い、というのが結論であった。そしてこの本も同じ結論に至っている。
 この伝記ではそもそも「追伸」の存在自体に触れていない。単にアルヴィンツィが書いた手紙の内容が「彼の軍はチロル方面から南下するがいつ到着できるかはわからない」(p201)というものであったと述べているだけ。1月13日や14日、リヴォリ、プロヴェラ、レニャーゴといった、偽りの「追伸」に含まれているキーワードへの言及は全くない。触れるに値するものではないという判断だろう。
 他にもこの伝記では、息子である大デュマの回想録と同時代の史料との違いをあちこちで指摘している。著者が(プロローグでも主張しているように)信頼性の高い史料を真面目に探し回ったことが分かる部分だ。ゆえにこの伝記に書かれていることは比較的史実に近いと推察される。

 そうだとした場合、面白いのはこのデュマ将軍の「名前」である。英語wikipedia"http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas-Alexandre_Dumas"をはじめ、ネット上ではその多くが彼の名を「トマ=アレクサンドル・デュマ」と書いている。だがこの本は、将軍が軍に入って以降、彼の名をほぼ一貫して「アレクサンドル(アレックス)・デュマ」と記しており、「トマ」はつけていない。なぜならアレックスは軍に入った時以降「二度と“トマ”という名前を使わなかった」(p101)からだそうだ。
 それより前の彼の名は、訳書では省略されているが「トマ・ルトレ」「トマ=アレクサンドル・ダヴィ=ド=ラ=パイユトリ」あるいは「トマ・ルトレ(デュマ=ダヴィと呼ばれている)」などであった("https://books.google.co.jp/books?id=1N2S5K8KWeUC" p91)。以後、彼はアレクサンドル・デュマというシンプルな名前のみを名乗るようになったそうで、だとすると彼が「トマ=アレクサンドル・デュマ」と名乗ったことは1度もないことになる。
 本当にそうか。改めてgoogle booksで彼の名前に関する史料を調べてみよう。王政復古直後の史料、例えばVictoires, conquêtes... Tome Neuvième."https://books.google.co.jp/books?id=G68WAAAAQAAJ"には単なる「アレクサンドル・デュマ」という名前が複数(p28、179など)出てくる。彼の死後、1810年に出版された英語の本An Enquiry Concerning the Intellectual and Moral Faculties"https://books.google.co.jp/books?id=82ZD9ZVrNiAC"にも「アレクサンドル・デュマ」(p41)とある。そうした例が他にもあることはこちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/40536688.html"でも指摘済みだ。
 だがそれだけではない。1816年出版のDictionnaire des braves et des non-girouettes"https://books.google.co.jp/books?id=Mb1CAAAAYAAJ"には「デュマ(アレクサンドル)」の他に「アレクサンドル・ダヴィ=デュマ」(p141)という記述がある。また1818年出版のManuel des braves"https://books.google.co.jp/books?id=hq4WAAAAQAAJ"には「デュマ(アレクサンドル・ダヴィ)」と書かれている(p192)。デュマ将軍の死後である1812年出版のLa France militaire sous les quatre dynasties, Tome Premier."https://books.google.co.jp/books?id=oZWxLooPdr4C"にも「アレクサンドル=サヴィ・デュマ[ママ]」(p100)という名前が出ており、父方の姓である「ダヴィ」がまだ彼に付いて回っていた様子が窺える。
 それ以前はどうか。以前も指摘したように1793年、彼がまだ中佐だったときに出版された書物"https://books.google.co.jp/books?id=vGG4Rfub0lMC"には確かに「トマ=アレクサンドル・デュマ」の名がある(p437)。一方で1801年出版の本"https://books.google.co.jp/books?id=L3wXjhwKJdcC"には「デュマ(アレックス)」(p140)という記述があるし、1802年出版のLe guide du jeune militaire"https://books.google.co.jp/books?id=_zkUAAAAQAAJ"には「アレクサンドル・デュマ」(p96)及び「アレクサンドル・ダヴィ=デュマ」(p392)のそれぞれが掲載されている。
 要するに同時代、及び直後の時代において「トマ=アレクサンドル」と書いている事例はたった1つしか見つからないのである。むしろ世間一般の認識で言うのなら、当時この将軍は「アレクサンドル・デュマ」もしくは「アレクサンドル・ダヴィ=デュマ」の名で知られていたと見る方が妥当だろう。伝記の著者が指摘するように「“トマ”という名前」はほとんど使われなかったのである。

 では彼の名は現在のwikipediaが記しているような「トマ=アレクサンドル・デュマ」ではなく「アレクサンドル・デュマ」あるいは「アレクサンドル・ダヴィ=デュマ」とするべきなのだろうか。必ずしもそうとは言えない。歴史上の人物の通称が本人の「自称」とずれているのは珍しくないからだ。
 それに伝記を読む限り、自称で「トマ」を使わなかったといっても他称で使われた事例はある。彼の結婚に際して町役場が出した告知書には「市民トマ=アレクサンドル・デュマ・ダヴィ・ド・ラ・パイユトリー」(p144)と書かれていたそうだから、公式記録を重視するなら「トマ」付きの名前だって使用可能になるだろう。
 つまるところ世間一般に知られている名前こそが、歴史上の人物を表すのに適した名前になる。デュマ自身が「トマ=アレクサンドル・デュマ」と名乗ったことがなくても、それが世間一般に通じている名称であるのなら、この名称を採用する手もあるだろう。
 ただ基本的にマイナーな人物であるため、そもそも世間一般にあまりその名が知られていないのが現状である。現時点で本当に「トマ=アレクサンドル・デュマ」が一般的通称と断言できるほど人口に膾炙しているかどうか、私には判断できない。それなら本人の自称を重視して「アレクサンドル・デュマ」、あるいは同時代性に重点を置いて「アレクサンドル・ダヴィ=デュマ」と呼ぶ方が、より安全確実な選択だと思える。
 問題は「アレクサンドル・デュマ」だと彼より有名な息子や孫と名前がかぶってしまう点にある。息子と孫は「大」「小」で区別する用法が一般化しているが、将軍についてはそうした方法が定着しているとは言い難い。もしかしたら分かりやすさ重視のために「トマ=アレクサンドル」を使うという方法が、ただいま現在広がりつつあるのかもしれない。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック