フス戦争1421 ネタバレ

 そういえばフス戦争漫画"http://seiga.nicovideo.jp/comic/6131"の新章が始まっていた。いつの間にか話が1421年に進展。この年もけっこう色々あった年である。以下いつものようにネタバレで。

 1つはチャースラフ"http://en.wikipedia.org/wiki/%C4%8C%C3%A1slav"における会議。ジギスムントを排除した後の政治体制について6月初旬から話し合いが行われた。ただしLützowのThe Hussite Wars"https://archive.org/details/hussitewars00ltzo"によると、会議にはフス派だけが参加したわけではない。ジシュカやリヒテンブルクのクルシナといった連中以外に、ロジュンベルクのオルドリヒのようなカトリック派貴族、果てはジギスムントの非公式代理人とも言うべき連中も加わっていたそうだ。また「鍋の人」ことロハーチもいたという(p93)。漫画では早い段階で殺されていたが実際は1420年暮れに事故死したフシネツのミクラーシュに代わっての出席だったそうだ。
 会議で4ヶ条が承認されたこと、20人の代表者が臨時の評議員として秩序維持にあたることが決定されたのは、漫画に描かれたとおりだ。ちなみにこの20人の内訳は5人が貴族、4人がプラハ市民、2人がターボル派、5人が騎士、残る4人はプラハ以外の都市や自治体から選ばれた(p94)。そしてこの20人の中にはジシュカ、ヒネク=クルシナ、ヴァルテンベルクのチェニェク、さらにはロジュンベルクのオルドリヒも含まれていたそうだ。単純に「フス派の総会議」と決めつけられない、実際はかなり複雑な会議だったと思われる。
 より大きな問題として、どうやらこの会議ではジギスムントがボヘミア王になる可能性までは否定していなかったという点がある(p94)。ジギスムントの事実上の代理人までが参加していたのだから、そういう政治的駆け引きが行われていたのは当然だろう。その一方でリトアニア大公であるヴィタウタス"http://en.wikipedia.org/wiki/Vytautas"をボヘミア王にしようとする動きも同時期に存在しており、後には彼との交渉やその親族であるジギスムント・コリブート(ジーギマンタス・カリブタイティス)"http://en.wikipedia.org/wiki/Sigismund_Korybut"のボヘミア派遣などにつながる。
 要するに漫画では言葉の説明だけであっさり終わったチャースラフ会議だが、実際にはもっと複雑だったと思われる。外交劇に力を入れるなら、この話だけでもっと引き延ばすことも可能だっただろう。ただしLuetzowによると会議の詳細な内容は伝わっていないらしいので、フィクションに仕立て上げるのも苦労はするかもしれない。いずれにせよこの漫画ではそこに力点を置くつもりはないようだ。

 もう一つ、この年の出来事で話に仕立て上げやすいのはプラハの革命騒ぎだろう。既に1419年に行われた窓からの放り投げ"http://en.wikipedia.org/wiki/Defenestrations_of_Prague"を通じ、プラハでは新市街に住む過激な下層住民の力が増していたが、この年にはそれがより決定的となる事件が起きる。旧市街と新市街の統合騒ぎだ。
 チャースラフ会議の直後、6月30日にプラハの街中に鐘の音が響いた。ジェリフスキー派が下層市民をかき集めるために行ったもので、集められた連中は旧市街に乗り込み、議場になだれ込んで保守的な評議員たちを追放した。そして彼らは両市街を統合し、新たに4人の隊長と30人の参事会員を選び、市政の舵取りを任せたという。過激派による市政の乗っ取りとも言うべき出来事である"http://www.rozhlas.cz/toulky/vysila_praha/_zprava/207334"。このクーデターによってジェリフスキーは「両市街を完全に支配した」"http://www.libri.cz/databaze/dejiny/text/t23.html"と、当時の年代記に書かれたそうだ。
 Lützowの本にはこうした経緯があまり詳しく書かれていないのだが、こちら"https://sites.google.com/site/historiesoftheworld/a-history-of-prague"やこちら"http://lesmaterialistes.com/tempete-hussite-revolution-taborite-ecrasement-mouvement-plebeien-praguois-succes-hussites"のサイトでもクーデターが紹介されているし、この本"https://books.google.co.jp/books?id=lVBB1a0rC70C"にも同様の指摘がある(p213)。さらにはこちらの本"https://books.google.co.jp/books?id=XaNDAAAAYAAJ"でもジェリフスキーの扇動による権力奪取の話が紹介されており(p173)、どうやらこうした騒ぎがあったのは事実のようだ。
 その後も保守派の巻き返しなど互いの権力争いは続くのだが、基本的に翌年のジェリフスキー暗殺までプラハが過激派の影響下に置かれたのは事実のようだ。ターボル派のような過激派にとっては我が世の春といえる時期が来たわけで、漫画的にも取り上げやすい場面だろう。ジェリフスキー自身、火吹き芸人として漫画の中には何度も出てきているわけだし、フランス革命的な政治闘争を主題にするならこの話は絶好のネタだろう。

 だが漫画ではこうした動きを全てすっ飛ばし、いきなりこの年の9月から本格化した第2回十字軍に話を持っていった。それも素直にドイツ軍との戦闘を描くのでなく、よりによってアダム派"http://en.wikipedia.org/wiki/Adamites"を投入してくるとは。変化球どころかほとんど危険球ではないか。
 アダム派については英語wikipediaを見る限り、フス戦争の時期よりずっと前から存在していたカルトのようだ。元は北アフリカで生まれたそうで、彼らは楽園追放以前の(つまり原罪のない時代の)人間に戻ることを主張していた。当然ながら衣服を着用せず、また既存の結婚という制度も否定したという。実に凄いカルトだ。
 中世にもこのカルトが欧州で復活し、ネーデルランドやボヘミアに存在していたという。ボヘミアでは南部のネジャルカ川"http://en.wikipedia.org/wiki/Ne%C5%BE%C3%A1rka"の中州に拠点を置き、やはり裸で結婚と財産の私有を否定し、自由恋愛を行っていたのだとか。現代であっても眉をひそめる人は多いだろうが、当時においては相当過激なカルトである。
 Lützowによるとボヘミアのアダム派について言及されたもっとも古い記録は1409年に遡るそうだ(p117)。フスが処刑される前、フス派の運動が活発になる以前から存在したカルトである。何でも直接にはフランスから伝わったものであり、フスの信仰との関連はないとか。だがブレゾヴァのヴァヴリネツはアダム派をターボル派と結びつけて考えていたようだ(p118)。彼はフス派でも穏健なウトラキストであり、ターボル派とアダム派は過激派という点で同じものに見えたのかもしれない。
 宗教的には穏健であったジシュカは、ターボル近くの村で彼らアダム派のうち男女含む50人を焚殺した。そしてこの年の10月にはネジャルカ川の拠点を攻撃し皆殺しにしたそうだ(p118)。アダム派殺すべし、慈悲はない。しかし英語wikipediaによると翌年にはこのカルトはむしろ勢力を拡大したそうで、かなり根強い勢力を持っていたことが窺える。
 なお18世紀にもボヘミアではアダム派の復興があり、19世紀になってようやく最後の生き残りが弾圧されたという。他にも英国で17世紀に活動が広がっていたそうだ。というか今になっても、宗教色がどの程度あるかは知らないが、ネイチャリズムと称するヌーディズムは存在している"http://en.wikipedia.org/wiki/Naturism"。フス派がほとんど姿を消しているのに比べれば、こちらの方がよほど強かなミームだと言えるかもしれない。

 個人的にアダム派に対する感想は1つだけ。「寒そう」。ホモサピエンスが生まれたアフリカのような赤道直下で暮らしていれば衣服がほとんどなくても何とかなりそうだが、ボヘミアとか英国はいくら何でもきついだろうに。まして近代初期のやたら寒かった時期にアダム派をやっていた連中は、寒さに対する感覚がおかしかったのではなかろうか。エデンの園に帰るには、我々の皮膚は寒さに対して弱すぎると思われる。
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