大堡塁・下

 承前。実はザクセン騎兵がラエフスキー角面堡を奪ったという主張は、シュレッケンシュタインやメールハイムが初めて持ち出したものではない。もっと古い時期に出版された本の中で既にそうした話が紹介されている。
 一例が1824年出版のOestreichische militärische Zeitschrift"https://books.google.co.jp/books?id=KGRPAAAAcAAJ"。同書にはBruchstücke, die Mitwirkung der königl. sächsischen Kürassier Brigade bei der Schlacht an der Moskwa.(p119-)という記事が掲載されており、もちろんラエフスキー角面堡に対する突撃についても言及されている。
 まずコレンクール(この記事ではコランクールCaulincourtとされている)の突撃と死、そしてフランス胸甲騎兵がロシア軍の射撃で後退したことを述べた後で、ザクセン騎兵の突撃が行われ「ティールマンの副官であるミンクヴィッツ中尉が最初に成功した――強襲によって堡塁を落としたのだ」。ロシア軍の反撃に対し、ザクセン騎兵はフランス騎兵や歩兵の到着まで持ちこたえ、そして遂に堡塁をフランス側の手に確保したという(p147-149)。
 この本より古い事例もある。1821年出版のDie Feldzüge der Sachsen, in den Jahren 1812 und 1813"https://books.google.co.jp/books?id=csJRAAAAcAAJ"にもやはりザクセン騎兵が堡塁を奪ったことが書かれている。それによると「最初に成功したのは近衛騎兵連隊の右翼であり、先を急ぐティールマンの副官であるミンクヴィッツ中尉に続き、崩れた土によって平らになった壕を通り、打ちのめされた堡塁の胸壁へ突入した」(p381-382)そうだ。
 いずれも二次史料ではあるが、古い時期に出版されている事実は無視できない。これらの二次史料より古い一次史料が存在していなければ、こうした本が出版されるのは難しいからだ。そして探してみれば実際に一次史料に基づいて書かれたと見られるもっと古い文献が発見できる。
 それは1812年10月14日付の新聞、Oesterreichischer Beobachter"https://books.google.co.jp/books?id=mtFIAAAAcAAJ"だ。冒頭でモニトゥール紙に掲載された大陸軍公報第19号について触れた後で、ドレスデンで10月4日に発表された「9月7日のモスクワ河の戦いにおけるティールマンのザクセン王室旅団の役割」が紹介されている(p1291-1292)。もちろんその中ではティールマン率いる旅団がミンクヴィッツを戦闘に堡塁奪取をしたことが紹介されている。何十年も後に書かれたものではなく、同じ年に書かれた史料が存在するのだ。

 おそらくザクセン騎兵が堡塁を奪ったと書かれた最古の史料の1つが、ティールマンがザクセン国王宛に記した報告書だろう。上の新聞記事もその報告書を基に書かれたものだと思われる。ティールマンの報告書についてはLes Allemands sous les aigles françaises, III"https://archive.org/details/lesallemandssou01abegoog"に掲載されており、それによると会戦から4日後の9月11日にモジャイスクとモスクワ間の野営中に記され、10月2日にドレスデンに到着したようだ。ラエフスキー角面堡の奪取に関する部分は以下のようになっている。

「60門の大砲による散弾の十字砲撃下で2時間にわたって恐ろしい砲撃を受けた後、私は大堡塁を奪うよう命令を受けました。それは成し遂げられました。私は再び側面を優勢な敵騎兵に教われましたが、駆け足で到着したフランス歩兵が私を支援し堡塁を占拠しました。12ポンド砲10門を奪い、そこで会戦の行方が決まりました」
p164

 ティールマンが大陸軍公報に書かれた内容を知ったうえでこの報告を書いたかどうかは分からない。だがザクセン騎兵による堡塁奪取説について、当事者がかなり早いタイミングで書いた報告が存在することが分かったのも事実だ。同年10月時点で新聞にも掲載されていたのだから、この報告書自体が後になってでっち上げられたものでないことは間違いないだろう。回想録だけに基づく説ではなく、リアルタイムに近い報告書が存在した説なのだ。
 残る問題は、ティールマン以外にこれを裏付ける古い史料があるかどうかだろう。いかんせんティールマンはこの「誰が堡塁を落としたか」問題の一方の当事者である。彼の発言に記憶違いはあまりないだろうが、意図的な嘘や誤魔化しが入っていないとはいえない。他にこの説を支持する記録は、それも回想録ではなくできるだけ早い時期に書かれたものはないのだろうか。

 実はある。1869年に出版された1809 - 1815: Mémorial et Archives de M. le Baron Peyrusse."https://books.google.co.jp/books?id=t9BBAAAAcAAJ"という書物に採録されたギヨーム・ペリュスの手紙だ。p92-93の脚注に載っているその手紙を見ると、書かれたのは9月10日で場所はモジャイスク。ティールマンより1日早い手紙である。
 1894年出版のLettres inédites du baron Guillaume Peyrusse"https://books.google.co.jp/books?id=Ak5EAAAAIAAJ"を見れば、この手紙は彼の兄弟であるアンドレに宛てて書かれたものであることが分かる(p87)。身内向けの手紙だったため、あまり公的な関係を気にした記述をする必要がなかったのだろう。この手紙の中には明白にザクセン軍が堡塁奪取に寄与したことを認める文章が存在する。

「多くの堡塁が奪ったり奪われたりしました。最後に24門の大砲で守られた彼らの大堡塁が、胸甲騎兵とザクセン軍によって奪取され、我々は主要街道を支配しました」
Lettres, p88

 明白にザクセン軍Saxonsへの言及があることが分かるだろう。大堡塁ことラエフスキー角面堡の奪取に際してザクセン軍が寄与していたことがこれで裏付けられるのだ。大陸軍の主計官だったペリュスはフランス南部のカルカソンヌ出身であり、当然フランス人だ。その彼がザクセン軍の寄与について言及しているのは、ザクセン人であるティールマンの主張よりも客観性が高い記述と見ていいだろう。
 一方で彼は胸甲騎兵についても触れている。この胸甲騎兵が誰の率いたものであるかは不明であるため、コレンクールの騎兵が堡塁奪取に寄与したことを彼の手紙を根拠に否定するのは難しい。一方でこれがザクセン騎兵と一緒に行動していたポーランドの胸甲騎兵などを意味している可能性もあるため、コレンクールが間違いなく堡塁奪取をしたのだと主張する根拠とすることもできない。記述が簡潔すぎるためにそのあたりを断言するのは無理だろう。
 それでもザクセン軍について全く言及していないミュラの報告とはかなり様子が異なることは確かだ。もちろん騎兵予備を率いていたミュラの証言と、一介の主計官に過ぎないペリュスの手紙のどちらが信頼度が高いかという問題は残る。彼の手紙が決定打だとまで言うことは難しいだろう。それでもザクセン軍関係者以外に早いタイミングでザクセン軍の行動に触れる人物がいたのは、ザクセン軍による堡塁攻撃の話が大陸軍内でそれなりに知られていたことを示している訳で、それを全くの嘘と決め付けるのもおかしな話だ。

 フランス騎兵とザクセン騎兵。ラエフスキー角面堡を落としたのがどちらであるかを最終的に判断するにはもっと詳しく調べる必要があるだろう。だがザクセン騎兵側の主張にも充分な論拠が存在することは認めるべきである。
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