大堡塁・上

 一連の「騎兵による堡塁奪取」について調べてきた。ノイヴィートのようにそもそも堡塁奪取がなかった可能性が高いもの、ガイスベルクのようにあったかどうかあやふやなもの、ジュマップのようにあったと思われるが一次史料の少ないものなど、内実は様々だったが、ラエフスキー角面堡ほど明確に騎兵が奪ったと言えそうなものはなかった。
 そのラエフスキー角面堡についてはこちら"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/raevski.html"で解説済み。騎兵による堡塁奪取そのものを否定する人はいないが、「誰が堡塁を奪ったか」については議論がある。即ち馬事総監の弟コレンクールが率いた第2騎兵軍団の第5胸甲騎兵連隊か、それともラトゥール=モーブールの第4騎兵軍団に所属するザクセン近衛騎兵連隊とツァストロウ胸甲騎兵連隊か。

 コレンクール説は1812年9月10日付の大陸軍公報第18号に由来することは既に指摘している。ロシア遠征時の公報をまとめた本"https://books.google.co.jp/books?id=XihIAQAAMAAJ"の中にも「伯爵コレンクール将軍は(中略)第5胸甲騎兵の先頭に立って進み、全てを圧倒し、左側の堡塁に突入した」(p83)という記述がある。
 同じ公報の第24号(10月14日付)には9月9日付でミュラが記した報告も掲載されている(p101-103)。モジャイスクで書かれたこの報告の中に、公報第18号で書かれた話の元ネタがある。曰く「ワティエ将軍が指揮する第2胸甲騎兵師団の先頭に立ったコレンクール将軍は、前面で遭遇した全てを圧倒し、左側にある大堡塁を通り過ぎたことに気づいて、引き返しそこに襲い掛かり、第5胸甲騎兵[連隊]とともにそこを敵から奪った」(p102)。微妙な違いはあるが基本的に同じ話が載っている。
 この報告の英訳はこちら"http://www.napoleon-series.org/military/battles/1812/Russia/Borodino/Mikaberidze/Documents/c_MikaberidzeReports13.html"で読める。ただし英語では「大堡塁の左側」large redoubt on the leftとなっているが、原文はgrande redoute de gauche「左側にある大堡塁」であることに注意。前者の解釈だとフランス軍から見て堡塁の左側、つまり北側を通り抜けたことになるが、後者だと「(ミュラのいる位置から見て)左側[つまり北寄り]にある堡塁」を通り過ぎたわけで、おそらく堡塁の南側を通り抜けたと考えるべきだろう。
 この記述以外に、同じ公報第24号には9月10日に書かれたウジェーヌの報告(p104-107)も掲載されている。そこには彼が率いる歩兵の攻撃と「同時に右翼にいた胸甲騎兵が極めて華々しい突撃を行い、堡塁に突入した」(p106)とある。歩兵部隊の証言も騎兵が堡塁に突入したことを認めているため、ジュマップよりも確実に騎兵が堡塁を奪ったことが確認できる。また堡塁正面にいたウジェーヌが自分たちの右翼に騎兵がいたと証言している点も、ミュラの報告(原文)と平仄が合う。
 ミュラやウジェーヌの報告は、それがオリジナルを正確にコピーしたものであるのなら、一次史料と認めていいだろう。ただしオリジナルが残されているかどうかは不明。モスクワからの撤退時にこれらの報告を持ち帰ることができたかどうかは怪しい。また、中にはミュラの報告に第8胸甲騎兵の名前が抜け落ちていると主張する向きもある("https://books.google.co.jp/books?id=bWgaAAAAYAAJ" p203-204)。ただしそう主張しているのは第8胸甲騎兵連隊の関係者なので、信頼度はあまり高くない。
 他に「一次史料」としては回想録がある。報告書より信頼度は落ちるが、多くの回想録でそう言及されていることは紹介済み。例えばグリオワの回想録"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k108054m"に「彼[コレンクール]はこの堡塁とそれを守る兵に対する騎兵突撃を指揮した。(中略)先頭に立った第2軍団の胸甲騎兵――私が覚えている限り、それは第5胸甲騎兵[連隊]だった――は疾走し、彼らの前にあるものを圧倒し、堡塁を迂回してそこに突入した」(p37)と書かれていたりする。

 ではザクセン騎兵が堡塁を奪ったとする側にはどのような証拠があるのだろうか。これまでは英語文献に採録されたメールハイムやシュレッケンシュタインなどの証言を紹介してきた。だが彼らの証言は、確かに一次史料ではあるが、信頼度と言う意味では今一つ乏しい「回想録」である。
 シュレッケンシュタインの本"https://books.google.co.jp/books?id=8KWfAAAAMAAJ"は1858年に出版された。メールハイムの本"https://books.google.co.jp/books?id=I1xBAAAAcAAJ"はその2年後、1860年に彼の子供によって出された。ミンクヴィッツの本"https://books.google.co.jp/books?id=5HpKAAAAYAAJ"もある。いずれも明確にザクセン騎兵こそがラエフスキー角面堡を落としたと主張している書物ではあるが、ボロディノの戦いから半世紀近くかそれ以降に出版されたものであり、信頼度は決して高くない。
 もちろん、彼らは一方的に自分たちの主張を繰り返しているだけではない。シュレッケンシュタインはコレンクールの第2騎兵軍団の堡塁到着はウジェーヌの歩兵より遅かったと指摘したうえで、その論拠としてプロイセンの槍騎兵連隊史"https://books.google.co.jp/books?id=QHJPAAAAcAAJ"を紹介している。同連隊は第2騎兵軍団の第2軽騎兵師団に所属"http://www.napoleon-series.org/military/battles/Borodino/Mikaberidze/OrdersofBattle/c_MikaberidzeOOB2.html"していたのだが、ボロディノの戦いについて以下のように記している。

「その間、連隊は本当の攻撃あるいは交戦を行わなかったが、砲兵を守るという栄誉に浴し、その際に多くの兵と馬匹を失った。1回だけ彼らは敵砲兵攻撃のため前進したが、到達するまで彼らは長々と抵抗しなかった」
p33-34

 確かにコレンクールの率いた部隊がろくに接敵しなかった様子が窺える。ただしこう書いているのはあくまで第2軍団の一部部隊だけであり、彼らとは異なる師団に所属していた第5胸甲騎兵連隊が同様にほとんど本格交戦しなかったかどうかは断言できない。状況証拠にはなるとしても明確な事実とは言いがたいだろう。槍騎兵連隊史の出版が1841年であり、こちらも決して早い時期に出版されたものでない点も信頼度においてはマイナス要因と言える。
 シュレッケンシュタインはまた、ベルティエが「堡塁が落ちた、ザクセン胸甲騎兵が中にいる」と言ったのに対し、ナポレオンが「違う、彼らの制服は青だ。あれは私の胸甲騎兵だ」と答えたという話を紹介している(p121)。シュレッケンシュタインによればこれは「翌朝に知らせてくれた目撃者の話に基づく」ものだそうだが、そうした目撃者が本当にいたのかどうかは今となっては確認のしようがない。
 またシュレッケンシュタインは第4騎兵軍団長であったラトゥール=モーブールの証言なるものも載せている。「セロン大佐[第4騎兵軍団の参謀長]はこの士官や兵士連中を動かす精神を分かっていない。ヤツらは君主のためにやかましく死体を鞭打つ連中だ。醜悪さに根ざしている者はこうした事態が起きても自らの軍務が汚されたとは考えず、それは不幸なことに大衆の底辺からやって来た我々の後釜たる士官たちの存在においてしばしば生じている」(p123)
 ラトゥール=モーブール"http://www.napoleon-series.org/research/commanders/c_latour.html"は古い貴族の家柄であり、その彼から見ればそりゃ宿屋の12番目の子供であるミュラ"http://www.napoleon-series.org/research/biographies/marshals/c_murat.html"なんぞは大衆の底辺出身だろう。ただしこれまた本当に彼がそんなことを言ったのか確かめる術はない。とはいえシュレッケンシュタインが、皇帝に対するおべっか使いたちの手によって事実が歪められたと考えていた様子は窺える。
 だがシュレッケンシュタインがいくらあの手この手で主張しようとも、彼の本もメールハイムの本も回想録であることに代わりはない。もっと古い史料、もっと信頼度の高い史料はないのだろうか。

 長くなったので以下次回。
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