ノイヴィートの戦い

 さて、ある本"https://books.google.co.jp/books?id=5ZdBAAAAYAAJ"に書かれていた「騎兵による堡塁奪取」について、最後の1例も調べてみよう。1797年4月18日に行われたノイヴィートの戦いで、ネイのユサールによって堡塁が奪取されたという説だ。
 いきなり結論を言うことになるが、この話はかなりの確率で嘘である。色々と探してみたが、ネイが堡塁を落としたという話を載せている文献は、少なくとも私が探した限りほとんど存在しない。上に紹介した本以外では、せいぜい曖昧な表現をしているものが1冊ある程度。大半の書物において騎兵は堡塁奪取には関わっていないのだ。正直、なんでこんな話が出てきたのか、全く理解できない。

 まずは比較的当てになりそうなRevue d'Histoire"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k1239924"から。掲載されているLa campagne de 1797 sur le Rhinの中にノイヴィートの戦いも紹介されている(p93-)のだが、そこには一言も「騎兵が堡塁を落とした」という話は載っていない。
 ラインを渡河したフランス軍はルフェーブルの前衛部隊が右翼ベンドルフへ向かい、グルニエ麾下の部隊が左翼のヘッダースドルフと中央の堡塁群(正面には6つの堡塁があったという)に対応した。ルフェーブルはベンドルフに向かう途中でオーストリア軍最左翼にあった堡塁(図"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b53086006f"のG)を比較的簡単に奪取し、それからリシュパンスの騎兵とともにベンドルフへ進んだ(p95)。ベンドルフの前面にはザイン川があり、そこでオーストリア軍はしばらく抵抗したが、結局はリシュパンスの騎兵突撃によって破られた。ここでは大砲7門、軍旗5?などがフランス軍の手に落ちたという(p96)。
 他の堡塁や村への攻撃を担ったのはフランス軍歩兵だった。ヘッダースドルフに対してはバストゥールの率いる擲弾兵9個中隊が向かい、強襲によって村と堡塁を奪った(p96)。他の堡塁はオリヴィエ師団らが攻撃したが、彼らの抵抗は長引き、その間に数的不利にあったオーストリア軍のクライは退却を始めた。最後まで抵抗したのはオーストリア軍左翼から2番目の堡塁で、ここはルフェーブルに後続していたワトラン師団が2回の攻撃をはね返されたが、3度目の攻撃前に堡塁内で火薬が爆発し、その混乱に乗じてようやく落とすことができたという(p97)。
 一方、クライの退却に気づいたフランス軍司令官のオッシュは追撃のため騎兵3個縦隊を送り出した。彼らは「最も激しい砲撃を浴びせられながら全力で堡塁の間を通り抜け」(p97)、近くの森に逃げ込もうとしているオーストリア軍に追いついて捕虜を奪った。つまり騎兵は堡塁そのものにではなく、その間隙に向けて飛び込み、そこを通過して後方にある敵を追ったことになる。堡塁を落とした騎兵は、この文章の中には全く存在しない。
 そしてネイのユサールに至っては、ノイヴィートの戦闘では全く言及されていない。彼らの名前が出てくるのは会戦後の追撃、退却したオーストリア軍を追撃してディアドルフという場所に真っ先に現れた部隊を紹介するところだ(p97)。ディアドルフとノイヴィートの距離は20キロメートル以上。またディアドルフ近辺に堡塁があったとの記述も見当たらない。彼らが堡塁を奪ったとはとても思えないのだ。

 同じく革命戦争の二次史料としてよく使われるVictoires, conquêtes, désastres, revers et guerres civiles des Français"https://books.google.co.jp/books?id=Q-VBAAAAcAAJ"の記述もほとんど変わりがない。リシュパンスの騎兵が右翼で、バストゥールの擲弾兵が左翼のヘッダースドルフで勝利した後、オリヴィエ師団は激しい抵抗を受けながら正面の堡塁を落とした。この攻撃に際して「ネイ将軍は彼が指揮するユサール3個連隊の斜線陣を、ヘッダースドルフの左にある堡塁とノイヴィート橋の出口を攻撃している堡塁の間へ導いた。この巧妙な機動によりこれらの堡塁は全て回り込まれた」(p383)という。
 戦闘中にネイの名について言及しているのが目立つものの、その活動はあくまで堡塁の間intervalleを通り抜けただけ。堡塁そのものを落としたのはリシュパンス率いる歩兵、具体的には第9軽半旅団のカラビニエ及び第37半旅団の擲弾兵部隊だ。ほぼ同じ言及はFrance Militaire"https://books.google.co.jp/books?id=kzBXP2icGJEC"という、これまたよく知られた二次史料にもあり(p170)、ネイの活動についてはこうした認識が一般的だったことが分かる。
 オーストリア側の史料も同じだ。Oestreichische militärische Zeitschrift"https://books.google.co.jp/books?id=1WJPAAAAcAAJ"に載っているDer Feldzug 1797 in Deutschlandにもノイヴィートの戦いは紹介されているが、やはり騎兵については「堡塁の間」(p136)を突破して退却するオーストリア軍の追撃をしたとしか書かれていない。こちらではディアドルフの戦闘も含め、ネイに対する言及は全くない。つまり、信頼度の高いものも含め、有名な二次史料において「騎兵の堡塁奪取」話は全く紹介されていないのである。

 一次史料はどうか。まずはネイの家族が出版した彼の回想録"https://books.google.co.jp/books?id=TUK7_25FflsC"。それによると彼は「橋頭堡を攻撃している堡塁の間に第2ユサール[連隊]を、そして第3及び第4ユサール[連隊]をヘルタースホルフ[ママ]の堡塁間に投入し、その隙間を守っていた歩兵を粉砕し、捕虜や大砲を奪い、そして同じ勢いでヘレンドルフ[ママ]をカバーしている集団に襲い掛かって彼らをブラウンスベルクの峡谷へ追い払った」(p243-244)という。
 ヘルタースホルフやヘレンドルフというのはおそらくヘッダースドルフのことだろう。だとすると後半部分では堡塁ではないが村に対して騎兵が攻撃をしたようにも読める。ただし、「村にいた」ではなく「村をカバーしていた」couvraientという表現であることを考えるなら、やはりこの攻撃は村の外で行われたと見る方が安全。堡塁への攻撃だけでなく、防御施設に守られた村への攻撃も、ネイの騎兵は行わなかったと見なすべきだろう。
 回想録より更にリアルタイム性が高いものとして、会戦当日にオッシュが総裁政府に宛てて書いた報告がある。この報告は4月24日付モニトゥール紙"https://books.google.co.jp/books?id=lZ3CoCbFcDsC"にも掲載されている(p670)が、そこではヘッダースドルフ(こちら"https://books.google.co.jp/books?id=djUtAAAAYAAJ"のp736によるとヘッタースドルフ)を落としたのがバストゥールの率いる擲弾兵とカラビニエだと記している(オリヴィエの報告と入り混じっているのかもしれない)。 騎兵については「最後にリシュパンス将軍とネイ将軍が率いた騎兵突撃が敵を完全に混乱させ、多くが騎兵であった捕虜4000人を得た」という大雑把な記述があるだけだ。
 またこちら"https://books.google.co.jp/books?id=djUtAAAAYAAJ"にはオッシュの参謀長であるシェランの書いた公報も採録されている(p739)なぜか日付が10日ほどずれているが、内容的にはノイヴィートの戦いを記したものに間違いはない。ここでも騎兵の役割については大雑把な話しかなく、歩兵の堡塁攻撃を「ユサールと猟騎兵」が支援したこと、及び司令官が率いた騎兵突撃が敵を完全に壊走させたことが記されている程度だ。いずれも騎兵の堡塁奪取の証拠にはならない。

 以上、色々探してみたが、信頼できると思われる史料には騎兵の堡塁奪取は言及されていなかった。私が唯一見つけたのはLe Rhin et ses bords depuis les sources du Rhin jusqu'à la mer"https://books.google.co.jp/books?id=SbIWAAAAQAAJ"なる書物。中には以下のような記述がある。

「ユサール、猟騎兵及び騎馬砲兵からなる1つの縦はノイヴィート近くのヘッダースドルフ街道を通り、オーストリア軍の塹壕を攻撃し、それを強襲によって奪い、村を砲撃して炎上させ、そこを囲んでオーストリア軍の敗走兵を追撃した」
p498-499

 堡塁ではないが塹壕を攻撃して奪ったとある。もしかしたらこれが最初に紹介した文献が論拠にしたものかもしれない。だがどのようなソースに基づいてこういう主張をしているかは不明だし、それに塹壕retranchementsと堡塁redoutesは同じものとは言えない。やはりノイヴィートでの騎兵堡塁奪取については論拠に乏しいと考えるべきではなかろうか。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック