堡塁の場所

 さて、前回はジーク河畔の小競り合いについて紹介したが、実ははっきりしていないことがある。堡塁の場所だ。ボロディノの戦いなら有名だし、いくつもの地図が存在するため、ラエフスキー角面堡の位置も大体分かる。ジュマップははるかに無名だが、それでも本格会戦であり、これまでも紹介したように堡塁を記した地図がある。
 だが今回は違う。1795年9月13日に行われたジーク渡河はあくまで前衛戦闘(オーストリア側から見れば後衛戦闘)に過ぎず、要するに数多ある小規模戦闘の1つでしかなかった。だからそれについて一々地図を掲載している書物など存在しない。そもそも二次史料自体が少ないことは前にも指摘しているし、その記述もあっさりしたものが多い。
 それでも地名が書かれているから状況は分かるだろう、と思うととんでもない目に遭う。確かにブランケンベルクやヘンネフ"http://de.wikipedia.org/wiki/Hennef_%28Sieg%29"、ウケラト"http://de.wikipedia.org/wiki/Uckerath"といった地名は現代の地図を調べても簡単に分かる。だがこれがガイスバッハ"http://de.wikipedia.org/wiki/Geisbach_%28Hennef%29"になると少なくともgoogle mapには見当たらない。アネルスホルンやガイスベルクに至っては、そもそもどの地図にも出てこない地名なのである。

 堡塁の場所について「アネルスホルンAnelshornの高地」としているのはエルヌフの報告書だ。これがVictoire, Conquête...になると「ブランケンベルクBlankenberg前方の塹壕」という表現になる。そしてオーストリア側の二次史料では「ウケラトUkerath村の前面」や「ガイスベルクGeisbergの高地」といった記述が出てくる。ブランケンベルクとウケラトは4キロメートルほど離れており、「前面」や「前方」という表記だけで場所を定めるのが困難であることが分かるだろう。
 ヒントになりそうなのがHennef an der Sieg"https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=oIvk6XuDIcQC"という本だ。その中に1795年の歴史について触れた部分が短いながら存在している。

「1795年9月、ヘンネフ地域においてジーク渡河点を巡るフランス軍と帝国軍の間の小競り合いがあった。その過程で帝国軍はケースベルク(Käsberg)の堡塁へ退却した」
p27

 新しい地名が出てきた。ケースベルク"http://de.wikipedia.org/wiki/K%C3%A4sberg_%28Hennef%29"はガイスバッハ同様google mapには出てこない地名だが、OpenStreetMap"https://www.openstreetmap.org/"を使えば場所が特定できる。ヘンネフ南東(今ではヘンネフ市街地と連結している)のガイスバッハと、東方にあるブランケンベルクのほぼ中間地点、ヘンネフとウケラトを結ぶ街道上にある小さな集落だ。
 エルヌフの報告書にもあるようにヘンネフはフランス軍が渡河を試みた場所の1つと思われる(少なくとももう1ヶ所、ブランケンベルクも渡河地点の可能性がある)。そのヘンネフからウケラトへ進もうと思えば、ガイスバッハからケースベルクを経て南東へ向かうのが最も直線的なルートだ。そしてこのルートが登る最初の高地があるのが、まさにこのケースベルクなのである。ウケラトへ向かう敵を食い止めるために堡塁を築く場所としては、確かにうってつけに思える。
 またオーストリア側二次史料において、ガイスバッハから後退した自軍部隊が「川の右岸をウケラト方面へ遡った」("https://books.google.co.jp/books?id=SfCnF5Hb98gC" p119)と記しているのも、このあたりの地形と平仄が合う。ウケラト北西にあるビアート付近からガイスバッハへと流れるヘーナーバッハという小さな川があり、ケースバッハの集落はその右岸に存在するのだ。
 またこのヘーナーバッハ沿いにはペータースホーンPetershohn、ミヒェルスホーンMichelshohn、タイスホーンTheishohnといった、語尾に-hohnとつく集落が点在している。エルヌフ報告にあるアネルスホルンという地名が、実は何とかホーンという地名を聞き間違えたのだとしたら、フランス側の記録からもこの堡塁はヘーナーバッハ近くにあったのが立証されることになる。

 充分に断言できるわけではないが、どうやらこのケースベルク付近にオーストリア軍の堡塁は存在していたらしい。オーストリア軍はジーク河沿いに防衛線を敷くよりも、河から少し離れた場所にある高地に抵抗拠点を築いてそこで時間稼ぎをする方針だったようだ。そして実際に時間稼ぎはある程度、成功したのだろう。
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