ジーク河畔にて

 騎兵の堡塁奪取に話を戻す。ジュマップについてはこれまで調べてきたが、他の戦場ではどうだったのか。こちら"https://books.google.co.jp/books?id=5ZdBAAAAYAAJ"の指摘によるとボロディノ、ジュマップの他に1795年9月13日のアルテンキルヒェン、及び1797年4月18日ノイヴィートでやはり騎兵が堡塁を奪ったという。このうち前者について調べてみた。
 まず、いきなりだが「アルテンキルヒェン」は間違いである。Annals of the Wars of the Eighteenth Century"https://books.google.co.jp/books?id=sNsGAAAAcAAJ"にあるように、1795年9月13日はフランス軍がジーク河を渡河した日付だ(p292)。この河からアルテンキルヒェンまでの距離はおよそ30キロメートル。当時の軍では軽く1日はかかる距離だ。渡河を行い、30キロメートル行軍し、さらにそこから同日中にオーストリア軍と戦闘を交えたと考えるのは無理がある。実際、史料を確認してもアルテンキルヒェン付近で戦闘が行われたという記述はない。
 一方でこの戦闘をcombatと記し、本格的な会戦batailleでないと見なしているのは妥当だろう。1795年9月21日付のモニトゥール紙に記されたこの戦闘の第一報(Réimpression de l'Ancien Moniteur, Tome Vingt-cinquième."http://books.google.co.jp/books?id=BbQ9AAAAYAAJ" p784)には「[果実月]27日[9月13日]、我々の前衛部隊と敵後衛部隊の間に交戦があった」と書かれており、この戦闘が前衛部隊による小競り合いであったとの認識が分かる。

 このジーク渡河を巡る争いで騎兵が堡塁を奪ったと書いているのは、サンブル=エ=ムーズ軍参謀長のエルヌフである。議会で報告された資料をまとめているこちらの本"https://books.google.co.jp/books?id=JDlEAAAAcAAJ"に、日付は不明だがエルヌフから公安委員会へ出された報告が掲載されている。そこでは件の戦闘について以下のように記している。

「司令官に示された場所を占拠し始めたルフェーブル将軍は、ヘネフ[ヘンネフ]で敵と遭遇した。極めて激しい戦闘の後、この陣地は奪取され、敵はアネルスホルンの高地へ後退し、そこでしっかりと踏みとどまった。攻撃が始まり、敵堡塁の1つがいくつかの散弾を大砲が発射しながら、彼らは僅かずつしか下がらなかった。我々の騎兵は堡塁を迂回し、その途上で見つけた敵騎兵と砲兵全てを切り倒し、歩兵と入り乱れて彼らを突き崩し、堡塁を奪って13ポンド砲1門と榴弾砲1門を奪取した。敵は完全に壊走し、我々はそれを追撃して多くの捕虜を得た」
p3

 この報告が議会でなされたのは、9月25日付モニトゥール紙("http://books.google.co.jp/books?id=C6kNAAAAIAAJ" p22-23)によると9月21日だったようだ。その前日には議会でジュールダンからの報告も紹介されており、「我々の騎兵は敵とその砲兵に対する激しい突撃によって戦闘を決めた」(p11)ことが知らされている。こうした情報があったから21日付のモニトゥール紙にこの小競り合いに関する第一報が掲載されたことも分かる。
 ジュールダンはさらに歩兵が戦闘に参加できなかったとも示唆しており、それが事実ならこの堡塁奪取は間違いなく騎兵が行ったものとなるだろう。問題は、報告にもあるようにこの戦闘はルフェーブルの前衛部隊によって行われた前衛戦に過ぎず、司令官であるジュールダンや参謀長エルヌフはおそらく現場にいなかったと思われること。つまりこれらの史料は二次史料だと考えた方が安全なのである。ならば他の二次史料とも比較し、内容を吟味する必要があるだろう。
 マイナーな戦闘だけに二次史料も多くはない。その中で使えそうなのはVictoires, conquêtes, désastres, revers et guerres civiles des Français de 1792 à 1815, Tome Quatrième."https://books.google.co.jp/books?id=t4wQzcRqDTwC"だ。同書によると9月13日、軍はドイツ(ケルン対岸の集落)とフッテンを出発してジーク河へ前進し、ブランケンベルク"http://de.wikipedia.org/wiki/Stadt_Blankenberg"前面の塹壕でルフェーブルが接敵したという。
 当初は射撃戦が行われたが、やがてドベル将軍が敵塹壕に向けて軽砲兵中隊で砲撃を開始。オーストリア軍が動揺したところでドープール将軍が第1、第6及び第9猟騎兵連隊とともに飛び出し、フランス軍の側面へ前進してきたオーストリア騎兵に突撃し、これを塹壕へと追いやった。「この勝利はフランス軍に堡塁を迂回するという優位を与えた。彼らはあらゆる場所からそこへ入るべく襲い掛かり、包囲されたのを見たオーストリア軍は陣を撤収し、勝者に13ポンド砲1門と榴弾砲1門を残した」(p318-319)。
 エルヌフ報告に比べると書きぶりが曖昧になっているのが分かる。騎兵が堡塁を迂回しておそらくその背後に出たのは間違いないが、それから堡塁へ攻撃をしかけたのは「あらゆる場所から」toutes partsとなっており、背後の騎兵だけでなく正面の兵も堡塁攻撃に参加したように思われる。またオーストリア軍が陣を撤収したabandonnantという書き方を見ると、実際に突入される前に敵が堡塁を放棄した可能性もありそうだ。

 一方の主張だけでは不十分なのでオーストリア側の二次史料も見てみよう。Oestreichische militärische Zeitschrift"https://books.google.co.jp/books?id=SfCnF5Hb98gC"に掲載されたDie Operazionen am Rheine vom 8 bis 24 September 1795からの引用だ。
 それによると戦闘は右翼を守るブランケンベルクで開始。続いてルフェーブル師団が攻撃を行い、ガイスバッハを守っていた部隊はウケラト方面へ後退する。このウケラト村の前面には3つの堡塁があった。これらは「取るに足らない」防御施設であったが、フランス側は当初充分な兵力がなかったため、正午ごろまでは砲撃戦しか行われなかったという。
 その頃になってガイスベルクの高地にフランス歩兵がようやく到着した。ドープールは騎兵3個連隊で堡塁に群がり、守備隊を疲れさせようとした。帝国軍の騎兵も支援を試み、両軍の騎兵はしばしばぶつかった。フランス歩兵は砲撃で損害を受け、午後4時になってもそれ以上地歩を築くことができなかった。だが大口径砲によって堡塁に損害を与えたフランス軍は、さらに接近して散弾を発射。堡塁を支援していたオーストリア騎兵は後退を余儀なくされた。
 その頃、フランス軍を指揮していたクレベールは脱走兵からウケラトとガイスベルクの堡塁を占拠している兵が少ないことを知り、「歩兵と騎兵の強力な2個縦隊」を組んでウケラトへ向かった。襲撃は3つの堡塁に対して同時に行われた。「右翼と中央の2つの堡塁守備隊は常にフランス軍を撃退した。左翼の堡塁は2回、フランス軍に奪われたが、常に取り返した。彼らは遂に攻撃を諦めて後退した。夜遅くまで砲撃は続いた」(p119-121)。以上がオーストリア側史料による戦闘経緯だ。
 見ての通り、結局堡塁はフランス軍の攻撃では落ちなかった。オーストリア軍が夜になって命令に従い兵を後退させたため、形としてはフランス側の勝利になったが、エルヌフが主張するような華やかな勝利はなかったことになる。フランス側二次史料にあった「オーストリア軍は陣を撤収し」、そのおかげで堡塁が占拠できたという話と辻褄が合っており、つまり騎兵による堡塁奪取はなかった、という結論になりかねない。
 ただオーストリア側史料では3つの堡塁のうち左翼が「2回、フランス軍に奪われた」ともある。最終的な堡塁奪取はできなかったが、一時的な堡塁奪取ならできたと見ることは可能なのだ。その攻撃を行ったのは「歩兵と騎兵の強力な2個縦隊」であり、もしかしたら左翼堡塁奪取に騎兵も寄与していたかもしれない。

 結論。国民公会で派手に紹介され、拍手喝采を浴びた「騎兵による堡塁奪取」は、その実態がかなりあやふやである。基本的に二次史料しか調査できないため、なかったと結論づけるのは難しい。だがそれがあったとしても、おそらくは歩兵の協力を受けた一時的なものに過ぎなかったと考えるべきだろう。少なくともボロディノのラエフスキー角面堡とはかなり様相が違うものだったと見るべきではないか。
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