ベルティエによると「[フランス軍右翼の正面にある]これらの堡塁のうち最初のものは、フランドル連隊と擲弾兵第6大隊が正面から攻撃している間にシャンボラン及びベルシュニーの騎兵が右側から回り込んで敵側面に突撃し、すぐに制圧した」(p281)という。つまり右翼最初の攻撃でいきなり騎兵による堡塁奪取が成功したわけだ。実際には正面の歩兵と連携した攻撃であるため、騎兵が先行したと主張している史料があるラエフスキー角面堡"
http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/raevski.html"と完全に同一視はできないかもしれないが、それでもベルティエの証言を信じるなら騎兵が堡塁奪取に関与したのは事実となる。
この騎兵を率いたのは、右翼全体の指揮を取っていたブールノンヴィユだったという。ベルティエ曰く「シャンボランとベルシュニーの先頭に立って左側の最初の堡塁に突撃したブールノンヴィユ将軍は、自らの勇気に引きずられたため、突如として敵騎兵に囲まれ数の前に屈しそうになった」(p282)。前にも紹介したジュマップの地図"
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b84931974."にも、戦線右端に近いところ、堡塁のすぐ傍にTの文字が記された場所があり、脚注に「ブルテシュがブールノンヴィユを守って41の傷を受けた場所」と書かれている。ただし、発案者がベリアールであったかどうかまでは分からない。
オーストリア側のクリステンの証言にも、騎兵が堡塁奪取に関わったと窺わせる表記がある。フランス軍の砲撃で支援のオーストリア騎兵が一時後退した際に「オーストリア砲兵は塹壕にある彼らの大砲を安全にするため後退させ始めた。工兵が占拠していた堡塁はよく持ちこたえたが、フランス兵は他[堡塁]へと急ぎ、ユサール騎兵1個大隊が間に合うように後退できなかったいくつかの大砲を奪った」(p286)という。後退できなかった大砲というのが、堡塁に残っていた大砲を意味するのならば、これは騎兵が堡塁内に突入したことを示している。騎兵が堡塁を奪ったからこそ、こういう表現が出てきた可能性はあるのだ。
もちろんそうではない可能性もある。一次史料ではないが、ベルギー軍の歴史を記したHistoire des régiments nationaux belges"
https://books.google.co.jp/books?id=QkJTAAAAcAAJ"によると「オーストリア軍右翼[ママ]のクウェム近くまで前方堡塁の間を前進して突入してきたフランス騎兵は、退却移動を行っていた帝国砲兵を奪おうと試み」(p38)たと書かれている。この場合、フランス騎兵が奪取しようとした大砲はおそらく堡塁を出て後方へ下がろうとしていたものとなるし、「堡塁の間」を前進してきた騎兵は堡塁そのものの奪取には関与していないことになりそうだ。
他の一次史料はどうだろうか。まずダンピエールの証言を見よう。
「最後の堡塁は最も奪取が困難だった。帝国軍のエリートであるハンガリー擲弾兵がそれを守っていた。彼らはコーブルク竜騎兵及びブランケンシュタイン・ユサール騎兵に支援されていた。
ブールノンヴィユ中将はベルシュニー、シャンボラン及びノルマンディーの9個騎兵大隊に、コーブルク竜騎兵へ突撃するよう命じた。(大胆なデュムリエ、ブールノンヴィユとエガリテ将軍及び私は、各騎兵大隊の先頭に立って突撃した。騎兵の3人の指揮官たち、フレジュヴィユ兄弟とノルトマンは、その知性と勇気について大いに立証した。兵はピストルの射程から何回かの散弾を受けた。)それが敵の最後の努力だった。この突撃の後、彼らは大いに混乱して逃げ出した」
p278-279
「デュムリエは到着したブールノンヴィユによって戦場となった場所を占め、勇敢な2個旅団を左翼に置き、フレシュヴィユ兄とフルニエが指揮する猟騎兵、フレシュヴィユ弟の指揮するシャンボラン・ユサール騎兵、及びノルトマンが指揮するベルシェニーのユサール騎兵とともに戦闘の行方を決めた。彼はマルセイエーズを歌いながら彼らの先頭に立ち、筆舌に尽くしがたいほど陽気に勇敢に隘路を経て堡塁を攻撃した。彼らはそこでハンガリー擲弾兵を大いに虐殺した」
Revue d'histoire, p275
以上、La Jonquièreが紹介している一次史料に目を通してみた。いずれも書き方は決して明確とまでは言えないが、騎兵が堡塁奪取に一定の役割を果たしたことを窺わせる記述がある。しかしながらこれでようやくジュマップの堡塁問題が解決した、とはいかない。よく読めば分かるのだが、実はこれらの証言は互いに矛盾している。その部分を解明しなければ、ジュマップにおける騎兵の動きを理解したとは言えないだろう。
長くなったので以下次回。
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